夏の庭

人が死ぬところを、初めて目の当たりにした。

 

執拗なまでに雨が降り続ける長梅雨がようやく明けたのは、七月末のことだった。梅雨の終わりには、いつも腹立たしいほどの青空が広がっている。大雨は各地に甚大な被害を与えたが、そんなことは歯牙にもかけない様子で、空は堂々たる青さを聳え立たせていた。

「ばあちゃんは、もう駄目かもしれない。」

祖母の容態について知らされたのは、そんな夏の入口を迎えた昼下がりだった。

 

祖母は僕にとって母親代わりのような人だった。母が不在の僕に食事を与えてくれたのは祖母だ。高校生の時、制服を洗い、アイロンをかけてくれたのも祖母だ。祖母が作る料理はどれも美味しかったし、祖母がアイロンをかけたカッターシャツはいつだっておろしたてのようにぱきっと仕上がっていた。

平時は穏やかな顔で笑い、食べることが何よりの喜びだった。戦後を生きた人らしく「もったいない」という思想に執着していて、腐りかけの食べ物も捨てられないような性格だった。結果、冷蔵庫には鮪の佃煮や煮豆の化石が量産されていた。

時折ヒステリックに怒り出すこともあったし、祖父との口論は日常茶飯事だった。にもかかわらず、いま想起する祖母の顔は、どれもにこやかに笑っている。

 

老人ホームに到着すると、祖母は下顎を上下させて呼吸していた。これは「下顎呼吸」といって、人が死ぬ間際に見せる呼吸法らしい。そんな死の間際にいるというのに、祖母の表情はふしぎと穏やかに見えた。

そういえば、僕はこれまで身内の死を何度も経験しているのに、実際にこと切れる場面を見たことはなかった。痩せ細った祖母の顔を見ながら、「夏の庭」という小説を思い出していた。近所のおじいさんが死ぬところを目撃しようとしたあの少年たちは、最後どんな教訓を得ていたっけ。

 

従姉妹も祖母の枕元に立っていた。けれど、祖父が亡くなった時に比べれば、もう祖母の死が覆らないことを覚悟しているようだった。僕も、きっと祖母は今日いなくなってしまうだろうと確信めいたものを感じていた。

 

祖父が亡くなった時は、正直参った。あの時は急に容態が悪化したから、親戚も息を吹き返すものと信じて、四六時中祖父に付きっきりで精神を擦り減らしていた。最期まで祖父の回復という希望に縋っていたから、それが叶わなかった時、悲嘆に暮れた。

 

だからこそ、僕は祖母を笑顔で送りたかった。祖母の死を、単に辛気臭いイベントで終わらせたくなかった。だから、僕は祖母が間際にいる今こそ、悪態をついてやろうと思った。祖母には笑った後にため息をつく妙なくせがあったことや、ものを捨てられず家が半ばごみ屋敷になっていたこと、冷蔵庫の奥で眠っていた正体不明のタッパー、柄ものに柄ものを合わせるという前衛的なファッションセンス、金遣いの荒さや、身体の調子が悪くなっても医者の前では見栄を張っていたこと、背の低さから踏み台を使いながら料理をしていたあの光景。そんな祖母が言われて嫌な顔をしそうなことを、わざとらしく並べ立てた。

すると心当たりがあるのか、従姉妹がまず吹き出した。同室にいた父と弟も大いに笑ってくれた。祖母もあの独特な笑い方で応えてくれそうな気がした。

 

そうして笑っているうちに、祖母の呼吸が止まった。直後に唾をいちど飲み込むような音が聞こえた。驚いた僕や従姉妹が近寄り、口からも鼻からも息が出ていないことに気付く。かくして、祖母は逝った。

 

従姉妹は、人の死に直面する時にはいつも涙を流していた。けれど、そんな従姉妹さえ驚きのあまり泣く余裕を持てぬうちに、祖母は逝ってしまった。あっけない最期だとは思ったが、人がこれほど静かで穏やかに死ねることを知って、僕は少なからず嬉しいとも思った。

 

もう人の死には慣れたはずだった。死というものに対してそれなりの理解はあるつもりだったし、死が必ずしもネガティブなものでないことも知っている。けれど、頭で理解したつもりになっていても、心がそれを拒んでいた。死に対する絶対的な恐怖は、いつまでも頭の隅に居座っているし、今も消えたわけではない。それでもこの日、僕は初めて死を本来の形で捉えられた気がした。

 

いつも、夏が来れば肌で感じる。昔戦争があったことや、今鳴いている蝉がこの季節を越えられないこと。今年も熱中症で沢山の人が亡くなるという揺るぎない事実。夏にはいつも、死のにおいが染みついている。

けれどそれは、哀しくもなく、喜びでもなく、ただそこに在った。死はいつだって平等で、すべての人の傍らにあって、誰にでも訪れる。そういった口では簡単に言えそうなことを、初めて心が受け容れたのかもしれない。