「店長、サザエさんが実写化されるらしいですよ。」
モーニングとランチの時間帯を終え、静かになった喫茶店でアルバイトの女子大生がそう言った。
きっと彼女は、毎週日曜日に磯野家の群像を律儀に眺めているような人ではないし、その実写化にもさして興味はないのだろう。
ただ、彼女は優しかった。人見知りを自称しながら、人と接することにさして抵抗を覚えている様子もなく、こんな退屈な昼下がりには、なにがしかの話題を投じてくれるような、ありふれた女の子だった。
「へえ。それって実写化するほど需要があるのかな。」
「さあ、どうでしょう。でも、サザエさんの髪型はそれなりに忠実に再現しているそうで、それは気になります。」
彼女ははにかんで語った。けれど、僕は彼女の柔らかい笑顔を見るたびに、却って不安な気持ちになる。彼女はいい人を演じるために、自身をいつも追い込んでいるのではないかと勘繰ってしまうのだ。
僕が店長を務める喫茶店は、18時までしか営業していない。朝は早くとも夜はそれなりにゆっくりできるところが、この仕事を選んだ理由かもしれない。
閉店作業を終え、店から車で3分の位置にある自宅に帰ると、冷蔵庫からビールを出して、ラジオを起動した。
仕事終わりの疲弊した喉にビールを流し込むと、自傷的な快感が食道から胃腸にまで突き抜けていくように思えた。
僕が座椅子に座って呆けていると、ラジオが垂れ流す言葉の中に、ひとつだけ鼓膜に引っかかるものがあった。「サザエさんの実写化」というワードが、僕を惹きつけた。
「今回のサザエさんはですね、実写化でありながら、脚本を一から見直して制作する意欲作とのことです、設定もアニメ版とはかなり異なっているみたいなんですね。」
下戸の僕は、アルコールが回り始めているのを実感しながら、低音がふくよかで心地よいMCの声を聞いていた。
「そこで衝撃の設定なんですが、なんと今回の実写化には、8人ものサザエさんが出てくるんですよ!」
一瞬、なにを言っているのかわからなかった。
「しかも、18人のフネを頭に乗せたサザエさんも登場するとのこと!」
聞いた直後は状況が理解できなかったが、次第にこのおかしさがわかってきた。
僕は頭の中で、8人ものサザエさんが所狭しと動き回る姿や、18人の母親を頭の上に乗せて闊歩するサザエさんの絵面を想像して、けたけたと笑った。
「ああ、こりゃ夢だ。」
目覚めたとき、僕はだらしなく、にやにやとした笑みを浮かべていた。夢の中で想像したあの光景を再び想起して、布団の中で二転三転していた。早くこれを、誰かに伝えたいとも思っていた。
けれどその意識の奥で、喫茶店で話したあのアルバイトの女子大生がちらついた。
たしか茶色く長い髪で、まぶたは一重で、男子大学生に好かれそうな出で立ちだった。そして恐らくは、頻繁にパルコにでも行っていそうな女だった。