2021年5月22日(土)栄TIGHT ROPE

 

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栄には、「女子大小路」と呼ばれる歓楽街がある。女子大と聞けば、どことなく華やかな印象を抱く人も少なくないだろう。しかしながら、栄の女子大小路はそんなイメージとは対極にある。

 

女子大小路には、ホストクラブ、ゲイバー、風俗店、外国人パプなどが密集している。その街並みの猥雑さは名古屋でも随一だ。「場末」という言葉が似つかわしい雑居ビルがそこかしこに建ち並んでおり、どんな町よりも世界の端っこに相応しいという貫禄がある。なぜか路傍には常に外国人やホストの集団がたむろしており、彼らの前でAボタンを押せば「ここは女子大小路だ。カネと欲望が渦巻く常夜の街さ。」なんて返事が返ってきそうだ。

夜に男ひとりで女子大小路を歩けば、片言の外国人に春の購入を促されることになる。しかし、楽器を背負っているときだけは例外だった。なぜなら、彼らはバンドマンが金を持っていないことを承知しているためだ。

そんな女子大小路に車を停めると、いつも胸騒ぎがする。結局それはいつも杞憂に終わるのだが、こんな街ではいつ車上荒らしにあってもおかしくはないと妙に勘ぐってしまうのである。

 

しかし、斯様に猥雑な街に、どうして「女子大」なんて名前が付いているのだろう。きっと調べればすぐにわかることではあるが、今日はそんなところに気を回す余裕はなかった。

 

栄TIGHT ROPEで配信ライブをやるのは何回目だろうか。

 

僕は以前、TIGHT ROPEの店長であるシェリーさんにこんなことを言った。

「配信ライブって、自分の性に合っている気がします。僕がやっている音楽は、お客さんを巻き込んでいくタイプのものではないので……。」

けれど、いつしかその言葉も撤回したくなっていた。本当は、お客さんの顔を見たい。目を見て、ひとりひとりに向けて唄いたい。共演者のひとにだって、直截見ていただきたい。音楽をやっているもの同士、わかることがきっとあるはずだから。けれど、配信ライブではそういったつながりがどうしたって希薄になってしまう。とりわけ、配信ライブで弾き語りをするときの、誰も味方がいないというあの孤独は、未だ耐え難い。

 

そんな不安を抱えながら、これまた場末という言葉がふさわしい雑居ビルの階段を昇っていく。今日の自分の出番は昼だから、同じビルの他のテナントはまだ開店していないようだった。

階段を昇り、TIGHT ROPEの扉の前に立つと、後ろから声をかけられた。
「シンタロヲくん、久しぶり。」
そこにいたのは店長のシェリーさんだ。もう何度も顔を合わせているので、シェリーさんに会うと少し安心感がある。

シェリーさんは僕に右手の爪を見せながら、「僕も最近指弾きの練習をしているんだ。いろいろ弾き方を教えてよ。」と言った。シェリーさんの年齢が幾つなのかは覚えていない。けれど、新しいことに挑戦しようとしているその姿は、どこか少年のようで尊いものに思える。

シェリーさんもネイルとか塗っているんですか。」
「ネイル塗った方が爪が伸びたときに反らなくていいですよ。」
「僕が塗っているのはグラスネイルっていう押尾コータローさんも使っているもので……」

久々に人と音楽の話ができることが嬉しかったのか、僕は矢継ぎ早に言葉を投げかけた。近ごろ、僕は結構なおしゃべりだなとよく思う。シェリーさんは嫌な顔ひとつせず聞いてくれたが、ひとしきり喋ったあとで僕は「またしゃべり過ぎた」と妙な後悔を抱いた。

 

リハーサルは、滞りなく進んだ。そういえば、今日はアコースティックギターのピックアップを交換してから初めてのライブだ。まだ家のアンプぐらいでしか出音を確認していないから、どんな音が出るのか不安だった。けれど、モニターから僕に返った音は以前の音とは比べられないほどに鮮明になっていた。

 

正直にいえば、アコースティックの弾き語りはいつも緊張している。サポートメンバーがいないから、開演までの時間をほとんど人と喋らず過ごすことが多い。しかも、僕の弾き語りはスラムやスラップといった奏法を交えていて、音もリズムも未だに安定しない。本番の緊張が合わさると、指先はさらに硬直してしまう。今日は新曲も披露するから、歌詞も間違えないか心配だった。「もっと練習しておけば」「もっと反復して歌詞を読み込んでいれば」……。

そんな風に自身の力不足を嘆いている間に、出番が来てしまった。

 

僕は入場SEを使わないから、まずは無言でステージに上がる。静かにギターをセッティングし、シェリーさんやPAさんの合図を待つ。今日はこの時間がたまらなく怖かった。いまからどんな失敗をしでかすんだろう。なにを間違えてしまうんだろう。ネガティブなイメージばかりがまとわりつき、身体がこわばるのがわかる。音楽で大切にしていたいものが、どんどん自分の身体から遠ざかっていくように思えた。シェリーさんの声が遠くに聞こえる。演奏開始の合図を聞くまでの時間が、果てしなく長く感じた。

けれど、ゆっくり、着実にそのときはやってきた。

シェリーさんの「どうぞ」という声とともに、僕はBマイナーセブンのコードを鳴らした。

 

どうせ役に立たぬとわかってたのに
未だ追いかけるから泥濘むのです

 

一曲目、僕は「題名のない夜」という曲を演奏した。この曲では、掌底で4つ打ちを鳴らしながらアルペジオを弾いている。大石昌良氏の「ボーダーライン」という楽曲の奏法をそのまま転用しているから、いつか誰かに怒られるんじゃないかと内心ひやひやしている曲でもある。しかし、今日の僕はそんなことも忘れ、ふわふわとした心持のまま、この曲を演奏していた。

 

「どうせ何も叶わない」って知ったような顔してたって
腹の底で浅ましい願いを抱く

 

自分で書いた歌詞が、痛かった。近ごろ、自分にはまるで才能がないんじゃないかと思うことが多々ある。あの人のほうが、自分よりもいい曲を書いているなと感じることが増えた。昔は、そんなことをあまり考えずに歌を書けた。なんであれ、自分が作るものはただ一つの貴重なもので、尊くて、自分だけでなく誰かにとっても価値のあるものと信じていられた。それなのに、いまは。

歌いながら、いろんなことが悔しくなった。これまでやってきたことが恥ずかしくなった。自身の無力さを痛感しながら歌うのは、苦しい。

1曲目の演奏を終え、フロアを見ながら少しだけMCをする。誰に話しているのか、誰に届ければいいのか、よくわからなかった。そのまま、次の楽曲を始める。

 

歪んでしまったのは世界か
それともこの心か

 

2曲目の「ハリボテ」を歌いながら、僕は考えていた。仮に歪んでいるのが自分の認知だったとしても、その歪みとどう向き合っていけばいいのだろう。いちど歪んでしまったニンゲンもどきは、世の中とどう折り合いをつけていけばいいのだろう。周りのものすべてを呪ってしまうあの気持ちは、未だ僕の心の奥底で燻っている。そんな怨嗟にも似た念を、最後のスラップフレーズに込めた。弦は指板に強く打ち付けられ、その衝撃でいつまでも揺れているように見えた。

 

そしてMCを挟み、いよいよ新曲「魔女狩り」を演奏する。コロナ禍の初期に書き始め、ようやくひとまずの完成まで漕ぎ付けた曲だ。僕は行動するのがいつも遅いなあと思いながら、歌い始める。

 

「どうしようもない」と云って魔女は笑った
それは不条理を音にしたような声だった

 

コロナ禍の初期、ライブハウスは世間の攻撃の標的になった。いまも多くの人が「なにものか」をつるし上げ、攻撃している。自分がその攻撃の対象になったときのことを考えて、ぞっとする。ライブハウスが以前と同じような場所に戻るには、あとどれくらいの時間がかかるのだろうか。

 

交渉の余地も残されぬまま
魔女は世界の憎しみを背負わされた

 

魔女狩り」の演奏を終え、いよいよ残すはあと1曲となった。なにか話さなければと思うほどに、言葉が詰まった。お客さんの顔を思い浮かべようとするが、そのイメージは煙のように掴みどころがなく、忽ち誰も味方がいない現実へと引き戻される。ひとりで戦い続ける世のシンガーソングライターは、本当に強いなと思う。ぼくは、ひとりになりきれず、正式な形のバンドを組むこともせず、ずっと中途半端なかたちで歌っている。それでいいとも思うけれど、何かと向き合うことを避けたずるい生き方だとも感じて、ときどき苦しくなる。

それでも、今日はひとりで、途切れ途切れに自分の気持ちをなんとか喉から押し出した。「この世界にようこそ」を歌う。

 

何もしなくたっていいから
偉くならなくてもいいから
ここで泣くだけもいいから
生きてて 健やかに
この世界にようこそ

 

はたして、いまの僕は、この歌を歌うに足る男といえるのだろうか。僕は、自分が生きていていい理由を、言い訳を、未だ探しながら生きていやしないか。

 

さまざまな疑問を残したまま、この日の演奏は終わってしまった。演奏を終え、カメラに向けて下げた頭は、所在なさげに揺れていた。

 

 

こんなにやりきれないライブをしたのは、久しぶりだった。

きっと、こんなことは書かないほうがいいのだろう。誰のためにもならないのだろうし、マイナスプロモーションでしかないのも間違いない。

けれど、どうしようもなく苦しくて、忘れた方がいいような日のことも、僕は覚えていたいのだ。そして、できればあなたにも覚えていてほしいのである。ああ、いや、本当は忘れてほしいかも。いいや、どっちだろう。

 

誰だって失敗はしたくないし、できればもっとうまくやりたいと思っている。けれど、絶対に失敗が許されない世の中なんて、僕は息苦しくて、厭だ。

 

とはいえ、今日の失敗が、いつかの成功に繋がれば、なんて甘言は吐かない。ともすれば、僕はあした急に死んで、二度とライブをできなくなってしまうかもしれないから、本当は今日だってもっと自分が納得できるライブをしたかった。

 

ただ、僕だけではなく、世の中の多くの表現者が、こういうやりきれないライブをなんども超えているであろうことを、誰かに知ってほしかった。そんなことをいちいち書く面倒くさいひとは、そんなに多くないだろうから。

 

ああ、今日も終わる。終わってしまう。

 

今日はなにができた?今日のおれは何者だった?

明日はなにをする?明日はどんな人でいたい?