歌にしてしまえ
山梨のライブから生きて帰ってきました。大丈夫。またライブやれます。自分にできる範囲で、ライブの予定作ります。
久々にこんな長距離を一人で運転した。怖かった。昔事故したときのトラウマがよみがえる。けれど、きちんと休憩をとりながら、無理せず、なんとか一人で行って帰ってくることができた。それだけでもよかった。
けれど、今回の遠征で、自分の心にとってライブがどれだけ必要なことか思い知らされた。
全部自分のためでしかない。これからも、自分のためにやっていく。けれど、たまたまそれが誰かのためになるようなことがあればいいなと思いつつ、やっていこう。
近ごろは自分のことも人のことも厭で厭で仕方なかった。だれにも会いたくないと思う日が増えていたし、自分の本音がどこにあるのかもわからなくなっていた。でも、この二日間で好きな音楽や人に触れて、そんな閉塞感が少し薄れた気がする。
おれはあんまり記憶力がよくないから、またすぐに忘れて絶望するかもしれないけど、それでもこの世界にちゃんと味方がいること、すばらしい音楽を奏でる仲間がいること、この歌を自分がめげずに続けてきたことを、できるだけ忘れないように生きていきたいとおもう。
忘れるというか、わからなくなる、見えなくなるんだ。何度もきれいなものを見たはずなのに、日々の中でいつの間にかそれがわからなくなって、自分を卑下するしかなくなって、人のことも全部許せなくなって、身近な人にすらやさしくできなくって。それがずっと、つらかった。
なんだかこの苦しみはまだしばらく続く気がするから、自分の嫌いなところ、自分の嫌いなもの、一旦全部歌にしてみようかなと思っている。すごく酷い歌になるとおもう。でも、やりたい。
蛇蝎
いつになったら協調性やら社会性やらがきちんと身につくんだろう。
集団の中にいるとすぐに苦しくなる。空気は読みたくないし、意味のないルールも守りたくない。
それに、気に食わないものは徹底的に嫌いだ。嫌いなものばかりだ。
でも、そんなおれがいるせいで居心地悪くなる人や傷付く人が沢山いる。そこに関しては、いつも申し訳なくて死にたくなる。
おれがありのままに生きようとすると、いつも誰かを傷付けて、不快な思いをさせるから。
SNSでは、不機嫌を撒き散らす人間は蛇蝎の如く嫌われている。でもおれはたぶんその蛇蝎の側にいるのだろうなと思うことがよくある。幾つになっても自分の感情をうまくコントロールできず、そのせいで人に迷惑をかけたことが何度もあるから。
むしろ、自分は絶対に被害者だと信じきって人を非難している時のあの人達の方が、おれは怖い。自分が加害者になる可能性を毫も考えていない人の方がよほど加害的だとすら思っている。だからおれはいつも、あの人たちの正論に怯えている。
おれが人をいたずらに傷付けてしまうのは、許せないものが多すぎるから、という理由もある。許せないものに出会したとき、おれはそれを否定せずにいられない。これまでに至る所でおれが否定されてきたように。
つまるところ、自分を傷付けてきたこの世界に対してずっと仕返しをしたいんだと思う。本当は、手痛い思いをさせられるなら誰でもいいのかもしれない。そこに一見正当に見える理由が欲しいだけで。
初対面の人のことは大抵嫌いだ。特に嫌いなのはとにかく自慢をし続けて自分を大きく見せようとしてる男、人の演奏を見ない演者(大抵こういう奴はライブも曲もつまらないしありふれていて何にも心に引っかかるものがない)、音楽じゃなくて尻を追いかけてるのが明け透けな女性シンガーファンのオッサン、電車でデカい声で電話してる外国人観光客、人の見た目の話ばっかりして人間的な魅力が皆無の馬鹿な女、演奏も酷いし曲も良くない癖にやたら客を煽るバンド、どこにでも転がってる言葉を切り貼りした即席ラブソングをしたり顔で歌ってる奴。
あと自分を見くびってくる奴のことは全員死ねばいいと思っている。
それだけじゃない。身近な人にも辛辣な言葉を浴びせてしまうときが、それはもう数え切れないほどある。
でも結局全部、自分の思い通りにならないことに勝手に腹を立てているだけ。おれはいつまでも手前勝手な怒りを振り回す子どもだ。
そうしてまた人を傷付け、傷付けてしまったことを自覚しておれはおれをもっと嫌いになる。都合のいい罪悪感。そんな罪悪感を抱くくらいなら、おれが死ねばいいのにな。
自分のこういう悪辣さを許してくれる人達に、甘え続けてきた。おれはやさしい人たちの心をすり減らす寄生虫みたいな存在だとすら思う。
ライブの時だけ殊勝なことを口走り、きれいに脚色し、こんなもののなにが美しいんだろう。
最近ずっと無力感がある。身近な人を大切にできなくてなにが音楽なんだろう。
自分はなにもできないと感じる。今までなにをやっていたのだろうかと、最近よく思う。
こんなことを言うと、そんなにギターが弾けるのに、とか曲を書けるのに、とかそういうことを言ってくれる人がいるのだろうけど、ちょっとちがう。
もちろんお金が稼げることだとか、人気があることだけがすべてだとは毛頭思っていない。だから、自分たちの音楽に人気がつかないことを嘆いているわけでもない。
けれど、おれは自分を変えるために、これだけ長らく歌ってきた。自分や周りの人を大切にできるようになりたくて、そのために音楽をやっているはずなのに、すぐに道を見失い、どうしてこんなに認められないのかとみっともなく喚き、いまだに身近なごく数人に心の底から優しく接することができず、あまつさえ心ない言葉をぶつけて傷付け、傷付けられをしている。
なんのために歌ってきたんだろう。馬鹿みたいだ。こんな体たらくだから、ありのままの自分なんてものを許せるわけもなく、ただずっと、無力。
なにも成し遂げなくていいし、人生に意味なんかなくていいと思う。それでもおれは時折、否、いつものように、自分が生きていることになんの意味もないであろうことに失望する。
そんなことを考えすぎて、昨日お酒をやたらと飲んだ。全部忘れたかった。確かにその時だけは少し忘れられた。でも帰り道、ものの見事に死にたくなっていた。なんて馬鹿なんだろうかと込み上げてきて、一人で泣いた。
僕はあなたのファンになれたでしょうか
今日も自分の音源を聞いている。
Hoddmimirをリリースしてから、ほぼ毎日のように聞いている。
自分で作った音源をここまで聞いているのは初めてかもしれない。
音楽をやっているとおもう。歌っている人の中には、自信が持てないままステージに立っている人がたくさんいる。
ライブを見に来てくれる人にもたくさんいる。不安そうな人、苦しそうな人、いまにも崩れ落ちそうな人。
おれは思う。みんな、本当はなにより自分自身のファンになりたいんじゃないかって。
おれもそうなんだ。心からそう思える作品を一度でいいから作ってみたかった。
なのに、作品を作るたびに悔いが残った。けれどHoddmimirは、一旦悔いなくやり切れたという感覚がある。
おれはこれから先、この音源を何度も繰り返し聞くと思う。おれは自分を救うためにこの音源を何度も自分で再生すると思う。
これはおれの、「こんな音楽がこの世界にあったらいいのに」をようやく実現できた作品だから。
明るい歌じゃありません。万人受けする歌でもないでしょう。流行りの歌を聞いている人には一切刺さらず、その琴線をかすることもない歌かもしれません。
でもおれは、この歌を大切にしてくれる人がいることを知ってる。仮に世界中の誰も聞かなかったとしても、おれだけはこの歌を大切にして生きていられる。
きっとこれから、この音源を聞くたび、過去の自分に向けてこう言ってやれる。
お前はよくやったよ。素晴らしい作品をこの世界に残したよ。それを一緒に作ってくれる素晴らしい仲間に巡り会えたよ。お前は運が良かったのだと思うよ。けれど、なによりお前が頑張ったのは間違い無いよ。だから、お前はお前を褒めていいよ。
おれ、ずっとこれがやりたかったんだな。
yomosugaraの最高傑作Hoddmimir。
もしよかったら聞いてやってください。
自己肯定感について
近ごろ頭の中がぐっちゃぐちゃで、まったくもって整理できておらず、アウトプットする言葉の解像度は下がり、思考力は鈍り、ようやく頭が働いたとしても碌な考えが浮かばないという悪循環に陥っている。
いい加減、自分の脳を一旦整理しておきたいので、最近考えていることをここに残しておく。
自己肯定感という言葉の意味について最近必死に考えている。
自分の自己肯定感は昔に比べて高まったのだろうか。そもそも自己肯定感は高い方がいいのだろうか。自分みたいな人間に自己を肯定することはできんのか、等。
長いこと音楽をやっているので、本当にありがたいことに、yomosugaraや自分の弾き語りを愛してくれる人たちに出会えた。
たくさん愛をもらった。こんないつもステージの上でぐちゃぐちゃになってる人間のライブに何回も足を運んでもらえるのも愛、あたたかい言葉をもらえるのも愛、ライブが終わった後にとりとめもない話をできるのも愛。
僕のやっている音楽は完全に感情先行で、自分の人間性をそのまま見てもらうようにしている。そのうえで見ている人にジャッジしてもらう。だから、この音楽を愛してくれる人には感謝してもしきれない。
とても嬉しかった。あなた達が何度も足を運んでくれることも、この音楽を好きだと言葉で示してくれることも、この音楽についていろんな考えを巡らせてくれることも。
そのたびに、自己肯定感が少し高まるような気がした。
でも、ライブをした数日後には、そんな効力はすっかり無くなって、抜け殻みたいになってることが少なくなかった。
僕は今まで、自分を肯定する材料を誰かに頼りきっていたように思う。いつも、自分を許してくれる言葉を探している気がする。
昨日思った。僕が苦しかったことを苦しいまま吐き出すようなライブをして、お客さんを篩にかけているのは、試し行動の一種なんじゃないかと。お客さんを試して、それでも自分を見捨てないでいてくれるのか、試しているだけなのだと思った。
ありのままを肯定してくれる言葉を、なんとかお客さんから引き出そうとしているような小狡さを自分に感じたこともある。
別に、それでいいとも思っていた。だって、僕は確かに、音楽を通していろんな人に出会って、いろんな人に認めてもらうことで、ようやく自分を少しだけ変えられたと思うから。
でも、きっといつか僕は音楽をやれなくなってしまう。その時のことを想像すると怖かった。
たぶん、あなたに愛してもらったことを、僕は何年先もずっと覚えているとはおもう。
でも、たとえば明日から音楽をやれなくなっても、今日までに受け取った希望を胸に、いつまでも自分を大切にできるだろうか。
それについては、正直なところ自信がなかった。
ライブの出来に左右される自分の不安定なメンタルにも腹が立っていた。
自分のすべてを出し切ったライブをやれた時には、途轍もない量のドーパミンが出て、多幸感がある。そんな日はいつも「生きててよかった」なんてことを思う。
でも、納得がいかないライブをしてしまった時は、お客さんにも申し訳ないし、共演者が良いライブをしているのも受け入れられなくなるほどに心が閉じる。ライブハウスという空間にいることが苦痛で仕方なくなる。
自分にとって生き甲斐であるはずの音楽が、苦痛になる瞬間がいくらでもある。自分を大切にできるようになりたくて続けているはずの音楽が、ときどきどこまでも自分を痛めつける。
納得のいくライブができた時だって、ドーパミンの過剰分泌がその場しのぎで自分に綺麗な言葉を吐かせているのかもしれないと、心のどこかで思っている。
その時その時は、本当に思っていることなのに、後から見返した時、「またおれは綺麗事言ってんなあ」なんたふうに、考えてしまうことも多い。
そんな自己矛盾を孕んだまま音楽している自分が、馬鹿みたいだ。
だから、僕はなりたい。
誰にも認められなくても、誰にも褒められなくても、一人もライブに来てくれなくても、ただ自分で自分のことを認めて、許してあげられるような自分になりたい。
ずっとそうしようとしていた。それを聞いている誰でもなく、ただ一人、自分だけを説き伏せられるようなライブがしたかった。
そして、自分から音楽がなくなった後も、もう必要以上に自分のことを責めず、誰かといたずらに比較もせず、ただ自分はこのままここにいていいという、確証を持って生きられるようになりたかった。
だから僕はいま、そんな自分になるために、試行錯誤をしている段階です。
自己肯定感は、たぶん誰かにもらう言葉で自分の価値を高めることじゃないと思う。
誰かに承認されることを繰り返していけば、いつか自分を肯定できるようになると思っていたけど、自分の場合はそうじゃなかったみたいだ。
純粋に、ただ自分で自分のことを認める。
それは僕みたいな人間にとってはとても難しい話みたいだ。だけど、いつかそんな存在になりたいと思っている。
おらは陰気者
ああ、毎日ざわざわするね。なにもしたくないし、けれどやらなきゃいけないことが山積している。
気候がもっと安定したら、この気持ちが全部なくなってくれるかな、なんて考えてしまうよ。
でも、たとえば全部をこの季節のせいにしたとしたって、もし次の季節まで生きた自分が前に進めていなかった時に、また辛くなってしまうのだよな。
いいよ、たとえこの先、全然前に進めなくても。この苦しみが、季節性のものでないと後から種明かしされるのだとしても。
いまは、全部この季節のせいにしてしまおう。
もしその先でまだ苦しかったら、そのときまた考えよう。
おれは生きるぞ。だって、おれは死ぬ度胸もないからさ。
もしよかったら、君も生きて、また顔を見せてくれたら嬉しい。
俺が俺で俺だ
大好きなMOROHAが活動休止を発表した。活動休止の発表を聞いた時、いろんな思いが駆け巡って涙が止まらなくなった。
好きなアーティストの解散や活休はそれなりに経験してきたけど、もう本当に戻ってこないのかもしれないと察して呆然としてしまったのは初めてだった。けれどそれをうまく言語化する気も起きず、何日も経ってしまった。
自分は今までにいろんなバンドの影響を受けてきたけど、MOROHAから受けた精神的な影響はとても大きい。大きいというか、この人たちがいなかったら逃げていただろうというライブがいくつもあった。
自分はテレビ番組のしゃべくりでMOROHAを知ったクチだから、もっと昔から知ってる人からすればにわかファンの類ではあると思う。
それに、ライブももうずっと行っていない。というか1回しか行けていない。僕が大好きなclub rock'n'rollで、SuiseiNoboAzのツーマンライブを見にいったのが最初で最後だった。
そのライブの終演後物販でUKさんと話した。自分も音楽をしていると話したら「じゃあいつか対バンできたらいいね」と言ってくれた。自分なんかではそんなことは到底できないと思ってしまっていたけど、UKさんのその言葉が嬉しくて、本当にいつか対バンしたいと思うようになった。けれどそのいつかは叶わなかった。自分のバンドをもっと成長させて、MOROHAと並んでも恥ずかしくないくらいにまで大きくなってから一緒にやれたらよかった。けれど、MOROHAはどんどん大きくなっていって、自分はなかなか前に進めなかった。情けない。結局、あのrock'n'rollの日以来、MOROHAを一度も生で目撃できていない。
それでも、新しい音源が出るたびにチェックして、その言葉に何度も尻を叩かれ、心をやさしく包み込んでもらった。そのギターに何度も世界がいかに色鮮やかであるかを教えてもらったし、人の可能性を見た。
演者としておれはとても未熟だ。会場に行くのが億劫な日の方が多い。今日が本当に楽しみでしょうがない、なんて気持ちで家を出られることはほとんどない。むしろいつも不安で仕方なかった。
「今日はうまくやれるだろうか。」
「お客さんに失望されないだろうか。」
「対バンと比べて見劣りしないだろうか」
そんな雑念ばかりの状態でいつもライブに行っていた。
けれど、そんなときにMOROHAを聞く。すると、雑念がすっと消えていくのを感じる。
おれがライブ会場に向かう車の中でよく聞いていたのは、「俺が俺で俺だ」。あの歌を聞くたびに、MOROHAほど芯が強そうに見える人たちもこんな思いでステージに上がってるのかと驚いた。勝手に、仲間だと思った。ステージの袖でがたがた震えてるところも、なにより自分を説き伏せたいと思っているところも、場の空気を読み間違えてると自覚しても尚、そんなライブをしてしまうところも。
「緊張できる場所まで連れてきてくれた今日までの俺よ 本当にありがとう」という言葉に、ステージに立つ一人としてどれだけ救われたかわからない。あの言葉があったおかげでやり切れたライブがある。
MOROHAの活動休止を聞いたとき、どうしてあんなに呆然としてしまったのか、今ならわかる。おれはMOROHAが活動を続けてくれるという事実に甘えていた。安心しきってきた。この人たちがずっとやってくれているからおれも頑張れる、なんて都合のいい考え方をしていた。またいつかライブに行きたいなと思いながら、それを先延ばしにし続けていた。
でも、どんな音楽もいつかは終わってしまう。当たり前のことだ。なんでそれに気付かないふりをしてたんだろう。
自分の選択を、極力好意的に解釈するなら、おれはMOROHAの言葉通り、人のライブを見に行くことよりも自分の曲を作り自分のライブをすることを優先したのだと思う。MOROHAの音楽には、「ライブなんか見てないで帰って自分のことをやれ」と突き放すようなやさしさがある。おれもその通りだとおもっていたし、人がいいライブをしていると悔しいばっかりだった。いいライブを見た日ほど、早く帰って曲を書きたかった。
でも、結局おれはMOROHAほどストイックに音楽をやってこれたわけではなくて、ただ何度も寄り道したり逃げたりしながら歌い続けてきてしまった。だから、どこかMOROHAに顔向けできない後ろめたさがあって、言葉にするのが怖かったのかもしれない。
MOROHAの活休を知って呆然とした理由はたぶんもう一つある。
おれにとってMOROHAの音楽と精神性は、受け取ったなんて言葉じゃすまされないものだった。何度も何度もおれが鼓膜で摂取し、脳に焼き付け、そうしていまの自分の一部になってしまったものだからだ。そしてその一部を自分の言葉に咀嚼して何度もアウトプットしてきた。おれの思想はもう完全にMOROHAに毒されている。もう後戻りできないくらいに自分の魂にまでMOROHAの言葉と音が刻み込まれた。でもそれは、MOROHAが新しい曲を出すたびに少しずつ上書きされていくものだった。自分の中の一部が更新されるその瞬間が楽しみだった。それが止まってしまうのが、怖かったんだと思う。これから何を指針に生きていけばいいのか、なんて気持ちにさえなった。
ただ、自分も昔バンドを解散させてしまっているから、MOROHAの活休をとやかくいう権利はないと思った。その一方で、UKさんがいなくなって、アフロさんがこれから一人でどうやって活動していくのかとても心配にもなった。いうなれば、作曲者を失ったソロシンガーという立場に近いのだから。
けれど、今朝アフロさんの新曲を聞いて思い直した。朝っぱらから泣かされた。簡単に、「対バンしたい」なんて言ってた自分を殴りたくなった。でも、MOROHAの二人がこれからも別の形で音楽を続けていけることが確信できて、ようやく自分の気持ちを言葉にする気になれた。
MOROHAは、いまの自分の一部になった。そのおかげで、おれも自分から逃げずにライブができた。そういうライブができたおかげで、またすばらしいアーティストやお客さんに出会えた。これは自分の人生にMOROHAが関わってくれなければできなかったことだと思う。MOROHAを聞き続けたおかげで、いまのおれの周りにはMOROHAと同じぐらいかっこいい人がたくさん現れてくれた。だから、もう大丈夫だって、思った。
ちっともうまくまとまらないけど、ずっと自分に負けないように進み続けてくれたMOROHAに、感謝してもしきれない。
おれはあの人たちから勝手に受け継いでしまった魂を、死ぬまで捨てられないとおもう。それくらい、おれにとってMOROHAは宝物でした。
生きてますプライム
君が苦しいときにちゃんと「苦しい」って言えるように、おれは自分が苦しいときに散々喚いて騒ぎ立てようと思います。
誰かが「辛いのはお前だけじゃない」なんてことを言ってきたら、「でもおれは吐き出さなきゃ耐えられないほど苦しいんだ」って吠えまくろうと思います。
いい大人がすることじゃあないのかもしれないよな。
しかしね、僕は、苦しいと人に言えず死んでいく誰かを見送るのは、もういやなんだよ。
おれは自分の辛かった気持ちをただ辛かったと吐き出して、それでいつもちょっと楽になってしまう。
文章でも、音楽でも。
そうして吐き出すことでおれの心は確かに何度も持ち直してきた気がする。これがなかったらおれはもっと嫌なやつになっていたし、いま自分の周りにいる人とも出会えていないとおもう。
おれが書くような歌にも「音楽」という言葉が当てはまるのだとしたら。おれの歌は「自分が音で楽になる」ことを目的とした、エゴイズムの塊みたいな代物だよね。
でも、もうそれでいいや。
っていうか、本音を言えば、自分のためだけに歌っている人に、おれは確かに憧れてきたんだった。
だから、誰かのために歌い始めた瞬間、おれは嘘になってしまうのかもしれないし、おれは近ごろ、半分嘘をついたまま歌っているともいえる。
だってさ、君に会えたことが本当に嬉しかったんだよ。こんな勝手なことばっかり言ってる歌を、いつまでも大人になりきれていない歌を笑わず受け止めてくれる君に会えたことが、おれは心の底から嬉しかったんだよ。
だから、目の前に君がいたら、心のどこかで少なからず君のために歌いたいと思ってしまうよ。
おれはもう、そういう意味では孤高になりきれないできそこないのミュージシャンなのだとおもう。
だから、せめて、歌の中では嘘つかずにいたい。君に向けて歌いたいと思ってしまったことも、それでも時々全部どうでも良いと思ってしまったことも、全部に正直にいたい。
だから、君もせめて吐き出していけよ。辛かったなら、泣いたっていいよ。
大人だからなんなのさ、まだ終わってないんだろ、君の中で。だからこんな歌聞きながら泣いてるんじゃないの。
ごめん、これはちょっと暴論かもな、君がもうそれをちゃんと過去にできているなら、こんなに嬉しいことはないよ。
でも、もし終わってないなら、まだこんな歌聞いてくれるんなら、おれはまた君に歌いにいきたい。生きて、歌いにいきたい。