やさしさのメモリ

感染症にてんやわんやの世の中で、演奏を披露する機会をいただいた。またしても無観客配信ライブで、お客様との面会は叶わない。しかし、久方ぶりに演奏できることを嬉しくも思う。と同時に、不安で仕方がない。

 

よからぬ想像ばかり拵え、眠ろうとすればするほど思考が鮮明になっていく。夜中になると、突如我が身に降りかかる「例のあれ」。いま、おれはあの感覚に振り回されている。だから、今日の日記も碌でもない内容になっているに違いない。

 

 

おれは、やさしさには容量があるとおもっている。

 

その容量は人によりけりではあるが、おれが抱えたやさしさの容れ物はとてつもなく小さい。

 

 

さいころ、おれは内弁慶と家族に笑われたものだった。家族の前ではいわゆる「キレる子ども」だったのだと思う。けれど、同級生の前では必死にいい顔をしようとしたからだ。

 

とはいえ、それも長続きせず、いつのまにか般若のような我が一面を誰彼構わず晒すようになった。そして、たくさんの人が俺のもとを離れていった。

 

いじめに近い仕打ちを受けたこともある。クラスメイトに無視され、居場所を失ったこともある。けれど、ぜんぶ自分が悪いのだから、仕様がないとも思った。

 

数年経って、ようやく人との関わり方を身につけたおれは、自分の本性はできるだけ隠さねばならないことを知っていた。やさしい人を演じているうちに、本当にそう評価していただくことが増えた。

いじめを受けることもなくなった。浅い繋がりの友人がたくさんできたし、腹を割って話せるような人とも出会えた。

 

だけれども、ときおり顔を出すのだ、あの悪鬼のようなおれの性分が。

 

誰かに優しくしようと思えば思うほど、また別の誰かには醜悪な一面を晒している。家族に優しくあろうとすれば友人に矛先を向け、友人と上手く関係を築けているときには家族との関係性が悪化する。

 

おれはやさしさのキャパシティが極端にすくない。きっと、おれがやさしく接することができる相手は片手で数えられる程度にしかいない。少しでも遠くにいる人のことは、心底どうでもよくなってしまう。むしろ、「あいつもきっと今はおれのことを嫌っているのだ」という頓珍漢な被害妄想さえ生まれる。

ときどき、そんな自分がとても恐ろしくなる。

 

ほんとうは、もっとやさしい人になりたいのだ。だれにでもやさしい人になりたいと思っているのに、いつまでもそれができない。

 

誰かに優しくしてもらいたければ、まず自分が人に優しくなることがなによりの近道であるのは明白なのに。そんなことはもうとっくに知っているはずなのに。

 

 

 

 

おれはいつまでも、人にやさしくなれない。

けれど、じょうずに諦めることもできない。だから、もう少しだけ、足掻いてみようと思う。