君の青い車で海に行こう

「なんとかハウス」っつー名前の、僕がとても嫌いな番組がありまして。

 

美男美女が寄り集まって脚本に沿った演技をしながら恋愛模様を描く、あれです。「りありてぃ」なんてモノを売りにしているテレビ番組が軒並み嘘くさいのはなんでなんだろうね。

 

まあ、嫌いだからあんまり知らないんです、その番組のことは。

 

けれどちょっと前にその番組に出ていた男女のやり取りが取り上げられたツイートを目にした。

 

男は卑屈そうな顔をしていた。彼の主張をかいつまんで話すと

「人間は幼少期の家庭環境・トラウマ・教育によって心に大きな傷を負うと、生涯にわたって暗い影を落とすことになる」

たしか、こんな具合の言葉だった。親から愛情を注いでもらえなかった自分は、うまく人とかかわることができない、と。とても自然なことだと思えた。

 

けれどそれを聞いた女が、きらきらとした表情で答えるのだ。西洋人の血が入っているのか、鼻筋が通ったはっきりとした顔立ちの女だった。

「それは、自分の人生を誰かが動かしてるってことでしょう。私はそうじゃない。私は自分の人生は自分で選びたい。」

と、彼女は答えた。

しかも、「起きていることすべてが自分の責任だから。」と付け加えるのである。

 

とても眩しくて、まともで、それ故に厭わしい言葉だった。

けれど、ネット上にはそんな彼女の言葉を絶賛する声がいくつも挙がっていた。

きっと彼女も、彼女を称える人も皆、真っ直ぐに正しく生きてきたのだろう。そうして今も人として正しい姿で生きている。

 

けれどそういう手合いのニンゲンには、一度本当に折れてしまったであろう彼の気持ちはわからない。

スタートダッシュの時点で大きなハンデを背負わされ、人生のレールから大きく外れ、真っ当に生きることができない自分に失望し、世界から正常であることを求められるたびに反吐を吐いてきたはみ出し者の気持ちは、きっと彼女にはわからない。

 

 

僕には、障がい者の弟がいる。

彼には「クラインフェルター症候群」という染色体異常がある。

なんとか会話はできるが、コミュニケーションとしてきちんと成立していないことも多い。本はほとんどまともに読むことができない。

もう二十五歳にもなるが、精神年齢は小学校二年生と大差ないといっていい。彼はいつまで経っても大人になれないのである。彼の心はたぶんずっと、子供のままでいる。

障がい者である弟は、それでも小さいころは僕とほとんど対等に話していた。けれど歳を重ねるほどに知恵遅れの兆候が見え始め、遂には僕も弟がほかの子どもたちと違うことを認識せざるを得なくなった。

 

ある日、弟が泣きながら帰ってきた。

弟は学校で同級生に「お前は馬鹿だ」といわれたという。

 

弟も自覚はしていたのである。周囲の人々と自分との間にある懸隔を。けれどそれを友達だと思っていた同級生の口から聞かされたことは、本当に耐え難いことだったのだろう。

弟は僕にとって、ただの一人の家族でしかない。いつまでも子供らしさが消えないことも含めて、家族の一員でしかない。

けれど、そんな弟が、僕や父のように自由に生きられないこともまた事実だ。弟には健常者と同じような仕事はできない。だから、障がい者として雇用され、ほかの人よりも安い賃金で働くしかない。

 

弟の話は、極端な例なのかもしれない。

けれど、たとえばアダルト・チルドレンや境界性パーソナリティー障害、ADHDといった障害を抱える人は、弟とまったく別といえるのだろうか。

僕は、そうとは思わない。

 

世の中には、自分の人生を自分でコントロールしきれない人が確実にいる。動き出したくても身体が動かない人だっている。

僕はそういう人に向かって無遠慮に「すべては自己責任」だなんて言葉をかける気にはなれない。

 

僕は遠回りでいいから、あの男の人が少しずつ自分を許せるようになったらいいなと思う。