本当に久しぶりに、ちゃんかなさんと話をした。
ちゃんかなさんというのは誰かというと、数年前ぼくが鬱になって逃げ出したサイフォニカというバンドでドラムを叩いてくれていた人だ。
高校の同級生でもあり、かなり長い付き合いだったけど、サイフォニカの解散をきっかけに疎遠になっていた。
サイフォニカ解散のときにはお互いにひどい言葉を浴びせ合ったし、正直ずっと気まずい思いがあってほとんど連絡を取っていなかった。
「時間が解決してくれる」
その言葉はとても甘美な響きを持っている。それはとんでもない失敗を犯した人間でさえ、無条件に肯定してしまう。誰かを傷付け、泣かせ、恨まれることになったとしても、この言葉さえあれば、いずれ勝手に訪れる贖罪の日に期待してのうのうと日々を過ごすことができる。
けれど、僕はことサイフォニカの解散に関しては、そんなふうに考えてはいけないと考えていたし、どこまでいっても自分を許してはいけないような気がしていた。
ちゃんかなさんが久しぶりに連絡してきたのは、サイフォニカのファンのメッセージがきっかけだった。Instagramで、当時サイフォニカを聞いてくれていた方からDMが来たという。
そこには、僕らが音楽をやっていたことを、これでもかと肯定する言葉が並んでいた。
「苦しくてどうしようもない時に寄り添ってくれる歌が今でも大好きです」
「今でも辛い時に聞いて助けられています」
「サイフォニカの残してくれた曲は今でも自分の中で生き続けています。」
読んでいて、しぜんと涙があふれた。
と同時に、ちゃんかなさんはやはり律儀な人で、それはいまも昔まで変わらないのだな、と思った。
いちどは自分を拒絶した人間に、この文面を送るのにどれほど勇気が必要だっただろうか。逆の立場だったとして、僕がその勇気を持てただろうか。
そういえば、昔からそうだった。もう関係が切れてしまったような人にも、ライブを見てもらいたいと思えば躊躇いながらも連絡を取る。それで相手に厭われようと、自分の伝えたい気持ちがあれば、それをどうにかこうにか伝えようとする。そういう不器用な人だった。
そんなことを思い出しながら、僕は本当に、心から自然に、ちゃんかなさんにあの時のことを謝罪していた。
あらためて、彼女が本当に素晴らしいドラマーだったことを思い出していた。
そして、なんだかいつも喋っている友だちに話すのと同じように、お互いの近況をとても素直に伝え合うことができた。
ちゃんかなさんは、ずっとライブハウスに対して複雑な気持ちを抱いていたことを吐露してくれた。けれど、そのことについて僕を責めることは一切しなかった。
僕は、僕はニンゲンになりたかったのこれまでの活動で感じてきたことやこれからやろうとしていることを伝えた。
正直いえば、彼女にどんな反応をされるのか怖かった。けれどちゃんかなさんは、僕が前に進もうとしていることを知ると、素直に喜んでくれた。
本心ではもしかしたら複雑なものがあったかもしれないけれど、仮にそうだったとしても、彼女が祝福を贈ってくれたことが嬉しかった。
彼女がそんな祝福を贈れるぐらいに、自分の道を歩み始めていたことに安堵した。
ひとは、何度間違えるのだろう。
その時々の苦しさに振り回されて、誰かを傷つけ、必要以上に何かに傷つき、そうして心をすり減らして、大切なはずの関係さえ壊してしまう。
そんな愚かなことを繰り返しながらも、僕らは昨日よりほんの少しだけでも、だれかに優しくなれているのだろうか。
自分なりの理想を見つけ、その姿を体現するべく生きられているのだろうか。
やはり、ひとは変わっていってしまうのだ。それは寂しいことなのかもしれない。けれど、それが救いになることだって、あるのだと思う。