穏やかな日々

ここ最近ちっともギターが上達しない。新しい技を覚えても自分の曲に落とし込めるほど磨けない。ライブをしなくなって、スタジオに入らなくなって、音楽に対して少しずつ無関心になっていく。

ついでに本もめっきり読まなくなって、とことん言葉に大雑把になった。

 

SNSもあまり見なくなった。以前は見るだけでストレスを感じていたにも関わらず、どうしても逐一覗かずにはいられなかった。だから目を背けたら、とても穏やかな気持ちになれた。けれど、いろんなことに対する嫉妬、執着、そういったものが薄れてしまった。

 

自分よりも遥かに年下の人が脚光を浴びる瞬間に、子供じみた対抗心を燃やせなくなった。

 

僕はこれを、こんなしみったれた変化を、けっして「成長」などと呼びたくはない。

 

いつまでも子どものようにやきもちを焼き、必要以上に自己主張が強く、根拠のない自信を持ち、けっして人の夢を笑わない。

 

そういう人でいたい、いたかった、痛かった。

 

 

新型コロナウィルスが日本中に蔓延した時、真っ先に世論の攻撃を受けたものの一つがライブハウスだ。

ライブハウスは歌うし、密室だし、お世辞にもきれいな場所ではない箱が多いしと今回のウィルスに感染する場所としてはうってつけだったらしい。

 

けれどそういう世間の流れからライブを中止せざるを得なくなって、僕は少しだけほっとしてしまった。

 

僕はこれまで、その時々によってペースの差はあれどずっと音楽をやってきた。音楽を作っていなければ心がぶち壊れてしまう鮪のような男だった。

 

けれど、心のどこかで、「これを辞めたらどんなに楽だろうか」なんてことを考えていたのも事実だ。

音楽を作り、誰かと演奏し、人の心に届けるのは至上の喜びだった。しかしそれ以上に、誰にも評価されないことへの恐怖や苦痛の方が大きかったわけだ。にも関わらず、僕は音楽を辞めた自分にはなんの値打ちもないであろうことを確信していたから、不用意に立ち止まることもできなかった。

 

けれど、そんな状況が新型コロナウィルスの出現によって覆された。僕は初めて、音楽をやらなくてもいいという言い訳を見つけてしまったのだ。

 

それからの日々は、とても穏やかだった。歌はなんにも思いつかなかった。これまでの僕は、常識をさも当然のように押し付けてくる、いわば正常すぎる世界に反論するような歌ばかり書いていた気がする。だから、本当に世界がおかしくなってしまったいま、何を歌えばいいのかわからないのかもしれない。

 

SNSを見るのを辞める直前、こんなツイートを見かけた。

「このご時世じゃライブなんて到底できやしないが、コロナショックが終わったら、きっとどのバンドも素晴らしい名盤を世に出すだろう。」

 

僕はそのツイートを拝見したときに、「はたして本当にそうだろうか」と思った。

 

コロナという言い訳を見つけたバンドマンの中には、もう諦めてしまった人もたくさんいるのではなかろうか。

 

世の中の劇的な変化に疲弊し、切磋琢磨する仲間を失い、外界からの刺激を閉ざされ、なによりの幸福を奪われた表現者の中で、はたしてどれだけの人が生き残るのだろうか。

 

こんな甘っちょろいことを言っているから、僕はいつまでも半端なのです。

 

僕は、たぶん諦めそうになっている。けれど、この先どうしたいのかは、自分でもよくわからない。