本当は格好なんてどうでもいいと思っていたかったよ

「そのネクタイ素敵ですねえ」

 

そう言われて、思わず顔が綻んだ。

 

「これは祖父にもらったものなんです。祖父もたぶん喜びます。」

 

祖父が亡くなったのは数年前。遺品整理をしていたら、百本近くのネクタイが見つかった。

 

フランス紳士に憧れていた祖父。彼が残したこれだけの数のネクタイ、使わずにおくのはあまりに忍びないと思って、その日から仕事をする時にはネクタイをしめるようになった。

 

あれほど忌み嫌っていたネクタイを、いまは好き好んで身につけている。

 

「まるで社会という檻に首輪で括られているみたいじゃないか」

 

そんなことを言っていた自分は、どこへやら。

 

服とは生活だ。誰もが着なければならないという必要に迫られているものでもある。けれど同時に、誰かの生き甲斐になり得る。

 

服とは生活だ。着る人の生活が終わってしまった途端、ただの布切れになってしまう。けれど、ときにその布切れは、また誰かの生活へと渡っていくことができる、

 

祖父が生死の境目を彷徨っていた折、ぼくは父とよく言い争いをしていた。

 

父は、祖父が亡くなってしまうことに対して、あまりにも冷淡だった。ちっとも取り乱していなかった。

 

「こういうのは、順番だからね」

 

そんなふうに簡単に割り切ってしまえる父の姿にいささか腹を立てた。

 

けれどその冷淡さは、人が自身の心を守るために、しぜんと身に付けていくものだろうなと、いまは思う。

 

ぼくの人格にも、その冷淡さが少しずつ忍び寄ってきているのを感じる。

 

その一方で、祖父が遺したネクタイを締めるとき、祖父が遺したシャツに袖を通すとき、祖父が遺したコートを羽織るとき、そこには冷淡さではなく、温みがある。

祖父が愛していたものを、ぼくは覚えている。祖父が愛していたものを、いまはぼくが愛している(あまつさえ勝手に使っている)。

 

そういう自分にとって都合のいい解釈をしながら、昨日よりちょっとだけ、誰かに優しくなれれように生きられたらなと思う。

 

人は、いつか死んでしまう。

 

あまりにも当然のことを、ぼくらは知っているはずなのに、何度も忘れてしまう。

 

だから、自分が本当に大切だと思う、ほんの半径数メートルの人たちには、何度でも愛を伝えよう。

 

祖父がくれたネクタイを締めるたびに、そんなことを思います。