それでも世界が続くなら

3月27日、大阪にライブを見に行った。
以前、千葉でご挨拶させていただいた「それでも世界が続くなら」のライブだった。


自分のライブ以外の用事で大阪に来たのは、もう7年ぶりぐらいになるんだろうか。

今朝、ぼくの心には羽根が生えていた。大阪へ行くことを楽しみだと思えたのも、いつぶりだろう。

気分転換に慣れないことをしようと思ったぼくは、近畿鉄道のアーバンライナーなんて洒落た名前の電車に乗って、大阪難波に向かった。車窓から眺めた三重の景色は殺風景で田畑ばかりが広がり、遠くにぼんやり見える街の姿がどうにも非現実的なものに感ぜられる。
今日はできるだけ心を柔らかく保ちたかった。そして新しいもの、見知らぬものにたくさん触れようとも思っていた。

しかし、いざ大阪に着くと、ライブまでの余暇の過ごし方として、知っているチェーン店ばかり探している自分がいた。守りに入ってばかりの自分の平々凡々たる姿に嫌気がさした。

春先というには暑すぎる今年の三月末。そのなかでも殊に暑い一日だった。

ぼくは汗を流して散々歩き回った挙げ句、名古屋にもある服屋を巡り、名古屋でも買えそうな服を買い、名古屋にもある喫茶店で本を読み、名古屋にもある定食屋で晩御飯を済ませていた。
地元と呼ぶには家から遠く、どちらかといえば疎ましい名古屋のことが、今日は少しだけ恋しくなった。

ライブの時間が近づくにつれて、妙な頭痛に見舞われた。

それは自分が本来演奏すべきライブを放棄してこんなところに来ている罪悪感といえば説明も容易いが、どうもぼくの頭痛には複雑で多くの要因が絡まりあっているように思われた。

定食屋からライブハウスへ向かう道すがら、頭痛のみならず大量の汗がどっと噴き出してきた。
心から敬愛している大先輩のバンドに、今の自分をどう説明すればいいのだろう。

お前は間違っている、逃げるな、そんなことを言われるような気がしていたのかもしれない。


汗だくのまま、ライブハウスに入る。空調があまり効いていない。受付の方に極力迷惑にならぬように入場料を払い、フロアに入ってからは隅のほうで対バンの方々のライブを黙々と鑑賞していた。

以前バンドとして対バンしたrui ogawaちゃんが歌っていた。なんだか自分にも通じるものを感じる歌だった。もしかしたらぼくはruiちゃんに会うことにも後ろめたい気持ちがあったのかもしれない。

こうなったのは誰のせい というバンドも初めて見た。このバンドもぼくに通じるものがあると思った。演奏を見ていたら、急に涙が出てきた。
けれどこういう時のぼくは身勝手なもので、なにも音楽を聴いて泣いているわけではなかったりするのだ。

それは実に身勝手な涙だった。誰かがバンドや音楽に真剣に打ち込む姿を見ていると、自分もまだまだ音楽がやりたい、やり残したことが多すぎる、歌い足りない、まだ自分を表現したい、ぼくの人生を削って、切り取って、そうやって生きていきたい、この人たちに負けたくない、勝ち負けじゃないとしても、ぼくはぼくにしかできない表現を生涯続けなければ、納得がいかない。
そんなことを考えて流れる涙だった。

ぼくはフロアで一人で勝手に泣いて、新しい歌詞なんかを考えて、立ったうずくまったりを繰り返していた。

 

そして、いよいよ「それでも世界が続くなら」のライブが始まった。

始まった瞬間から、涙がどっと出てきた。
今度は先ほどの身勝手な涙とは違い、いや涙なんてものは概ね身勝手なものであるのだろうが、純粋に音楽に感動して流れた涙だった。

「それでも世界が続くなら」 のバンドとしての純度の高さに驚かされた。何故バンドとして成り立っているのか不思議なほどだった。バンドである以上避けては通れない人間関係や遠慮といったものから逃げたぼくには余計にその純度の高さがまぶしい。

メッセージ性は歌詞だけではなく、メロディの一節一節にさえ内包されていて、初めて聞いた一曲目と二曲目にさえ、それを待ち望んでいたような感があった。
触れてほしくもあり、そっとしておいてほしくもある、そんな心の溝に音が滑り込んでくるような感覚に、ぼくはただ打ちひしがれるしかなかった。

途中、急遽演奏する曲目を変えたりもしていた。歌詞も、MCも、すべて自分に直接語りかけられているようだった。

最初から最後まで、涙は止まらなかった。自分がどうして泣いているのか冷静に分析する心理学者ごっこをする余裕も与えられないほどに、この日のライブは強烈な命の輝きに溢れていた。その輝きは決してきらきらとしたものではなくて、例えば夜、ひとりで浸かる浴槽から眺めた蛇口の銀色のような、にぶく、しぶとく、強い輝きである。

ぼくはただ丸裸の心に、これでもかと音楽の衝撃を与えられて、あやうく倒れそうになった。

これほどまでに打ちのめされたライブを目撃したのは、本当に久しぶりだった。誤解を避けずに言えば、「見ているこちらも魂をすり減らしてしまう」ほどのライブだった。

 

終演後、勝手ながらメンバーの方々にご挨拶に伺った。

ぼくは、「それでも世界が続くなら」と共演するのが夢だったことを打ち明けた。

けれどぼくのバンドは解散、「それでも世界が続くなら」も活動休止。道は絶たれたように思われて、どうしようもなくそれが心残りで、悔しくなった。

ぼくの身勝手な独白を聞いて、ボーカルの篠塚さんは言葉をひとつひとつ、慎重に吟味しながら、応えてくれた。
その一言と一言のあいだ、沈黙といった行間さえ、篠塚さんの優しい心遣いが滲み出るかのようだった。


ぼくは打ちのめされて、悔しい思いをして、それ以上に救われた。
希望は絶たれていないし、ぼくはまだ歌えるし、「それでも世界が続くなら」といつか必ず、共演できる。


ぼくは音楽に関しては、「夢」なんて大層なものは抱いていないのかもしれない。けれど、この素晴らしいバンドと共演することは、ぼくの明確な目標のひとつになった。


どれだけこの世界が歪んで見えたとしても、どれだけ自分が世界に適応できない不純物に思えたとしても、それでも世界が続くなら。ぼくは歌を歌い続ける。

「ぼくはニンゲンになりたかった。」
そんな重苦しい名前を背負って歌おうと、決意のほぞを固めました。


2018年春