光源

真っ暗でした。

 


部屋の電気を消して、しかし眼だけは開けたまま、ぼうっと上を眺めていました。

エアコンが運転していることを示す灯火だけが、唯一の光源でした。しかし、ほとんど何も見えやしません。

 


天井の染みも、細々とした汚れも、カーテンの色も、今はわかりません。

 

 

 

ここ数日の私は、どうにも身体が重たく、アルバイトすらままならない状態にありました。

 


曲を書けなくなったのです。

正確には、書こうとしているのに書けないことが苦しいのです。

 


曲を書こうとしてさえいない時間が、あまりにも長すぎました。

 


私は音楽と常に向き合う忍耐強さを持ち合わせてはいません。湧き水のようにこんこんと溢れる着想に恵まれた天才でもありません。

凡愚な私は、音楽から目を背けていなければ音楽を生み出せないのです。

 

 

 

そして、家からほとんど出ることがなくなった私を振り回すのは

「こんな程度のこともこなせないわたし」という強迫観念です。

 


人は、どうしてああも日々を何不自由なく過ごしていけるのでしょう。いえ、実際のところ、ほとんどの人が不自由な思いをして、苦しい思いをして、過ごしているのかもしれません。しかしそれでもなんとか、こなしている。あるいは、そのように見せている。

私には、それを上手くこなせている実感がてんでありません。

 


たかだか六、七時間程度のアルバイトで神経をすり減らし、夜には息も絶え絶え、家に着く頃には新しい音楽を作る気力も残されてはいません。

今日もお客さまのレジを打ちながら、涙がこぼれそうになりました。私はなぜこうも、駄目なのでしょう。

 

 

 

働いていると、遊びたいと思うのです。休みたいと思うのです。お金を使いたいとも思うのです。

 


けれど、そのすべてが私にとっては罪なのです。

 


休むことなく、遊ぶことなく、浪費することなく、ただ長期的な人生の目標のために、毎日を有意義に、一分一秒たりとも無駄にせず、ひた走る。人は、そんな生き方をしなければならない。

 


そのような強迫観念に、いつも囚われています。

 


ですから、私にとって遊びや休息は、却って罪の意識をくすぐるだけで、大して心を安らげることには繋がりません。

 


けれど、結局遊んでしまうのです。

 


私は現実を直視できない愚か者です。

そうして現実から目を背けた後、気怠い頭で思い出すのです。

「しまった。」

そう思う時にはもう、手の施しようがありません。

また時間を無駄にしてしまった、どこぞの誰かは今もせっせと曲を書いているというのに、私は何をしているのでしょう。こんな爛れた学生生活の延長みたいなことをして、私は一体何者なのでしょう。音楽家という自覚があるのでしょうか。私はただ決断を先延ばしにしているだけなのではなくて?

 


そんなことを懊悩呻吟し、私は狂ったように悶えながら、ある時は眠りに就き、またある時はなんとか平静を装ってアルバイトに向かいます。

 


「作曲をしていると意気込んで呟いている人は、いつもはそんなに努力できていない人だ。本当の努力家は、なにも言わずせっせと曲を作っている。」

そのような言葉を聞いてから、私はまるっきり、創作に関する発言を出来なくなってしまいました。

 


ですが、あえて言わせてもらいます。これは私なりの、反撃です。

 

 

 

漸く、ほんの少しだけメロディが流れてきました。

 

 

 

私は音楽家として出来損ないです。

 


スランプと名乗るお友達は数ヶ月おきに現れ、わたしを虐待します。

 


しかし時折閃いた我が着想には尋常ならざる愛着を抱き、「これはもしや、私には天賦の才があるかもしれんね」などとお調子の好いことを思わせます。

 

 

 

遊びたい時には、遊べばいいのです。

休みたい時には、休めばいいのです。

思いつかない時には、散歩をすればいいのです。

お金を使いたい時には、使えばいいのです。


そんなことは、誰に言われずともわかっているつもりですが、どうして人の心はそれを理解することを拒むのかしら。


着地点のない空想ばかりを弄り回し、また棄てる。そんな日々ですが、音楽家の日々は本当はこんなものなのではないかと、私は心のどこかでそんな甘い理想を未だ捨てきれずにいます。

 

眼が慣れてくると、ぽつねんと光るエアコンの灯火が、幽かに部屋の輪郭を明らかにしました、

 

死ぬるその時まで惨めに生きて、生きた音楽を届けたいのです。