美しさと醜さと

自身の美的感覚の乏しさを実感する機会は、これまでの人生に数えきれないほどあった。

特に顕著なのは人の顔を美しいと判断するか否かの感覚についてである。

 

私の目ではどこが美しいのかわからない顔の男が、「美男子」と称賛されている場面に何度も出くわした。そのたびに私はどう反応していいものか困ったものである。こういった場面で

「私はそうは思わない」などと発言できる人間は自分の感覚を根っから信じているだけではなく、恥を知らないのである。厚顔無恥であるからこそ、あんな発言ができる。

凡俗で自身の感覚に疑問しか抱かない私のような人間は、大抵このような状況ではお追従笑いなどをして、

「ははあ、そうでございますねえ」などと曖昧に返事をする。あくまで首肯せず、しかし相手の意見を否定するつもりはないという程度の抵抗をするのが関の山である。

しかし、それでも明確なことが一つある。私の顔がじつに醜いものであるということだ。

 

鏡台を覗くたびに、「どうして私はこのような顔に生まれなければならなかったのかしら」と考えて失望する。

卑屈な光が灯った目には生気も覇気もなく、それを覆う瞼は一重で、印象が薄い。唇は色も薄ければ幅も狭く、印象が薄い。眉は生まれつき薄く、幼少時から「お前さん、眉毛を剃ったらいけねえよ」などとあらぬ嫌疑をかけられる始末であった。そんな薄く弱弱しい部品が散らかった私の顔の真ん中には、三角定規のように飛び出た鼻が聳えている。どういうわけかこの鼻だけが厚かましく主張しているために、私の顔の不均衡さが際立ってしまう。

このような顔では、到底女に愛されることはないだろうと考える。私には、女に愛される才覚がない。

 

この醜悪な男は、絵や文字についても壊滅的であった。硬筆を握れば手ががたがたと震え、どのようにして線を引いても方向が定まらない。やっとのことで書いた字は薄気味悪いフォークダンスを演じているかのようであった。

絵筆を握れば、もっと酷い。私が描いた絵は絵と呼べるようなものではない。落書きと呼ぶことさえ、躊躇う。私が小学校・中学校の美術の授業で作り上げてきたそれは、汚らしいシミでしかなかった。

 

こんな私であるから、美的感覚が備わっているはずがない。私はこの世界の美しいものを美しいと判断する脳みそを持ち合わせていない。

 

そんな私が唯一、美意識を発揮する機会に恵まれたのが、服だった。服は、自分の手を動かす必要はない。着るだけでいい。私は美意識の欠落から長らく服に頓着のない男であったが、遅ればせながらこの世界一手ごろな美の表現に片足を突っ込むことにした。

 

服は簡単だった。まずは人の真似をすればよかった。洒落ていると世の中の人が口をそろえて評する人物の服装を真似ればよい。この私の手先の不器用さが影響するような場面も殆どない。そうしているうちに、高い服に金を突っ込む人間の気持ちが、少しだけ理解できるようになった。けれど私にはそんな服を買う度胸もなければ、金もなかった。

 

そしてある日気付いてしまった。どんな服を着たところで、私のみすぼらしさは消えなかったのである。

この貧相で醜い顔と、僅か164㎝ばかりの低い身長は、私が好むようになった服を活かさなかった。

私はいつまで経っても汚く醜い小男のままで、コンプレックスの塊だった。

鏡を眺めていると、全身をブランド品で固めた見知らぬ小男の姿が脳裏に浮かんだ。その時、服はコンプレックスを隠すための鎧なのだと考えるようになった。

 

加えて、私は声まで醜かった。私は自分の声を聞くと気分が悪くなる。「どうしてこんなに声が汚いのだろう。」「どうしてこんなに歌が下手なのだろう。」私は歌を歌っていながら、ずっとこんなことを考えている。歌を教わっている先生に、どのようにして詫びたらいいのかといつも考えている。そんな自覚がありながら人様の耳に自分の声を届けるライブ活動なんてものをしているのだから、私は矛盾の塊である。こんな気持ちを抱いているから、きっと誰からも愛してもらえないのだ。そんなことはわかっている。けれど、その気持ちを隠し通せるほど私は器用ではなかった。

 

私は、醜い。顔が醜い。声が醜い。そして内面までも醜い。

だから、世の中の美醜を正確に判別できない。

 

ただ、私と同じように考えている人が少しでも世の中にいたらいいなと思う。

誰かにとっての醜さが、また違う誰かにとっての美しさとなることがあれば、それを超えられる美しさはこの世の中には存在しないのではないだろうか。

こんなきれいごとを最後に一つだけおいていくのも、私が醜いからであろうか。

駄文でしたね。読んでくれてありがとう。