二十三時半、独り言つ

今後の自分の指針として書いておくメモのような。

 

次に作る作品には、言葉とひたすら向き合った曲を入れてみたい。

 

今まで曲先で作ってきて、メロディの拘束性に悩まされることが多かった。それは音楽を作るうえで避けては通れない障害だと思っていたけど、ポエトリーリーディングがこれだけ一般化して確固たるジャンルを確立しているいま、自分もメロディの装甲を脱ぎ捨て、ひたすら言葉を磨き上げた楽曲を投じてみたい。

 

yomosugaraとしての方向性についても考えなくてはならない。

 

バンドになるからこそ自分が歌う理由について、もう一度立ち返って考えてみたい。結局、自分が歌う発端になっているのは、アダルトチルドレン、ボーダー、そういう話なのよね。


けれど、僕は芯が弱いから、間歇的に、「広くいろんな人に伝えたい」という気持ちと、「狭く深く伝えたい」という気持ちが交互に歩み寄ってくる。

どちらを選んだらいいのかわからなくなってしまうことがままある。

 

どちらを選ぶのが正解なのかもわからない。

 

けれど、たとえば広くいろんな人に伝わりやすい曲を作ったとして、結局僕は「君は悪くないよ」というメッセージに戻ってきてしまう気がする。

 

大前提として僕はとてつもなく弱い。だから弱い人のためにしか歌えない。けれど、それがどんな種類の弱さなのか、時々わからなくなることがある。

 

それをもう一度、見つけに行きたい。自分が謡うべき弱さがなんなのか、もう一度見つけて、それを確信に変えたい。

 

すぐ明確な答えを見つけようとするのは、かえって思考の停止した阿呆っぽい所業かもしれない。

それでも見つけたい。

自分のバンドは、なにより自分にとってかけがえのない存在にしなければならない。自分以外のだれかで代替されるような代物だと、自分で思ってしまうような音楽には決してできない。

 

ひとまず今日はもうおやすみ。

夜もすがらもの思ふ頃

もうずっとバンドを組まないでおこうと思っていた。夜な夜な、自分を誹る誰かの声が聞こえてきて、一人でに悲鳴をあげた。

それでも、バンド音楽が大好きだった。

じゃきじゃきと刃物のように喧しいギターの音。
楽曲の間を這い回り、ときに遊び、ときに実直に支えるベースの音。
おびただしい数の太鼓とシンバルから無限のリズムを生み出すドラムの音。

そんな3つの楽器といっしょに鳴らせば、さして上手くもなければ個性的でもない自分の歌さえ、すこしだけ上等なものに思えた。

だけど、バンド音楽の前提にあるのは、人間関係だ。残念ながら、僕はその人間関係を築くのがとてもへたくそだったらしい。

そして数年前、本気で大切にしていたはずのバンドを、無茶苦茶にしてしまった。
ツアーが決まっていたのに、そのほとんどへの出演を勝手に辞退した。メンバーはギターボーカル不在のままツアーを回った。メンバーは毎日泣きながら過ごしていたらしい。ぼくはもうそれについて申し訳ないと思う余裕すらなくなっていた。

なにもかもを投げ出して逃げたかった。
毎日、どうやって死のうか考えていた。
誰も彼もを信用できなくなった。

けれど、なにより信用できなくなったのは、どうやら自分自身だったらしい。


「どうせ自分はいつか人を裏切ってしまう」

そんなふうに思うようになったのは、いつからだろう。だから自分には、もうバンドを組む資格なんてないと本気で思っていた。

だから、こんなふうに発想を転換することにした。

「いまの時代、ミュージシャンは一人でなんでもやれるようにならなきゃあ駄目だ。」
「バンドを組むやつなんて弱虫だ。」
「徒党を組んで、自分たちを大きく見せて、そうしないと人の目に留まることもない、そういう手合いの軟弱者の集まりだ。」
「これからは、一人で作曲から演奏、歌唱、映像制作、ミックス、ダンスまで、なんでもできるようにならないといけない。」

だからこそ、そんなことができるひと握りの人間に憧れ、激しく嫉妬した。
自分もそうなれると信じたかった。 

けれど、僕がライブをする時にはベースやドラムのサポートメンバーを迎えて、あたかもバンドであるかのような顔をしていたし、レコーディングではエンジニアさんの腕を借りっぱなしだった。僕はどこまでも中途半端だった。

そんななかでも、ギタリストとしての無駄なプライドだけは持ち合わせていた僕は、頑なにほかのギタリストの参加を拒んでいた。
「僕はニンゲンになりたかった」は、長らくスリーピースバンドのできそこないみたいだった。

けれど、人はいつの間にか変わってしまうみたいだ。

僕はある日、友だちの服部くんをリードギターとしてバンドの練習に誘った。当時の僕がなんでそんなことを考え出したのか、自分でもよくわからない。

けれど、その日初めて、僕の歌が誰かの手によって鮮やかに生まれ変わるのを感じた。
この人には敵わないな、と思ってしまった。

それから「不正解」という曲をレコーディングした。リードギターの録音は服部くんにお願いした。アレンジは難航したが、サポートメンバーの力を借りてようやく完成させられた。サポートメンバーがいなければ到底完成しなかった。不正解は僕にとってなにより大切な曲になった。

ある日のライブの帰り道、服部くんとお酒を飲みながら話していた。「正規メンバーに入れてほしいぐらいに、このバンドでギターを弾くのが楽しいよ」と言ってくれた。僕はその言葉にどう返して良いかわからなかった。

その後、当時サポートドラマーを務めてくれていたながとくんから、僕はニンゲンになりたかったのサポートを辞めたいと伝えられた。もう一つのバンドが忙しくなってきたからだという。

仕方がないことだと思えたらよかった。だって、僕は一人でやっていくつもりだったんだから。だというのに、ながと君がいなくなると考えたとき、本当にどうしようもなく、寂しい気持ちになった。ぼくが過去にたくさんの人を傷付けた罰が下ったのかな、とさえ思った。

「どうしてみんな、僕を選んでくれないんでしょ。ああ、僕が誰のことも選んでいないからか。」

そんなことをぼんやり考えるようになった。

けれど、それから程なくして、千葉さんが新しいサポートドラマーとして、たっちゃんを連れてきてくれた。

千葉さん、たっちゃん、服部くんの4人で、スタジオに入る日々は、楽しかった。ときには音楽のことを忘れ、一緒にお酒を飲みに行ったこともある。

ベースを弾いてくれている千葉さんは、人の愛し方がとても上手なひとだった。千葉さんは僕が作る歌に対する愛を何度も伝えてくれた。彼は僕が書いた歌を僕よりも大切にしてくれる。千葉さんと出会ったおかげで、僕は本当に救われた。あの人は太陽みたいだった。けれど、澱のように沈殿した僕の陰気な部分にも寄り添ってくれるふしぎな太陽だ。

ドラムのサポートとして千葉さんが紹介してくれたたっちゃんは、僕がこれまでに会った誰よりも穏やかな人だった。けれど人一倍努力家で、僕が作った複雑怪奇な曲も必死に練習してものにしてくれた。彼ほどやさしく、周りが見えている人を僕はあんまり知らない。

リードギターを弾いてくれるようになった服部くんには、嫉妬した。いや、自分よりも遥かな高みにいるおかげで、嫉妬すらできなかったのかもしれない。
服部くんがギターを弾いてくれるようになってから、僕はもう彼のギターが鳴っていない自分の曲を想像できなくなってしまった。僕は初めて、誰かのギターをもっと聞いていたいと思った。僕がどんな歌を書いても、そこに服部くんのギターが鳴っていてほしかった。僕の歌やギター以上に、彼のギターをあなたに聞いて欲しいと思ってしまう。

3人と過ごすなかで、一人ひとりが心から楽しんでぼくの曲を弾いてくれているのがわかった。けれど、彼らを正規メンバーとして迎え入れる覚悟はなかなか持てなかった。

怖かったからだ。

そもそも、正規メンバーになったところで、彼らにとってはなにもメリットがないように思えた。ぼくの音楽活動はあんまり知名度が高くないし,メンバーになれば金銭的な面でも負担を強いることになってしまう。ライブのノルマにレコーディング代、CDのプレス代、ミュージックビデオの撮影費……。バンド活動に必要なお金はそんなに安いものではない。「メンバーになってくれ」なんて頼めば、みんな去ってしまうのではないかと心のどこかで思っていた。

なにより、また自分の心が壊れてしまって、彼らを傷付けることになる気がした。

けれど、ときどき、いや、何度も思った。

ああ、こんなに素敵な人たちとバンドを組めたら、僕の人生はどれだけ素晴らしいものになるだろうか。

その思いは日に日に強くなった。だというのに、やっぱりそれを伝えることは怖くて、なかなか言い出せず、ひたすらに時間が過ぎていった。

そうこうしているうちに、曲がいくつかできてしまった。

正直に言えば、コロナ禍中、音楽と向き合うのを放棄していた時期があった。もう僕には歌は書けないだろうと思うこともあって、ずっと通っていたボイストレーニングも辞めてしまった。

それなのに、なぜかまた歌が生まれてしまう。生まれたからには、人に届けなければもったいないと思う。

そしてなにより、服部くんや千葉さんやたっちゃんと、もっと一緒にいたかった。

だから、思い切って「メンバーになってほしい」と伝えることにした。

服部くんは、すぐに「一緒にやろう」と返事をくれた。

けれど、千葉さんとたっちゃんからは、すぐには返事をもらえなかった。二人ともたくさんバンドを掛け持ちしているから、仕方がないことなのだと思う。とはいえ、やっぱり素直に「仕方がないな」とは思えなかった。自分の音楽に魅力がないから、人間性が腐っているから、ついていこうと思ってもらえないのではないかと考えてしまった。

それなら、服部と二人でやっていけばいいか。そんなことを考えつつも、服部くんにこれからどれだけの負担を強いることになるか考えると、足が震えた。いままでは自分の貯金を切り崩しながらやっていた音楽活動だったが、その半分を服部くんに負担させる勇気がぼくにはなかった。そうなると、もう千葉さんやたっちゃん以外の正規メンバーを探すべきなのかもしれないと思った。けれど、本当はこの3人と一緒にいたかったのに、それを曲げなければならないということを考えると、暗鬱な気持ちになった。

2021年の終わりがけは、そんなことばかりを考えるようになっていて、空が毎日灰色に見えた。底冷えのする鉄筋コンクリートのアパートの自室が、よけいにこたえた。

年が明けると、およそ頭のおかしい人たちが今年の抱負をSNS上で語り始める。ぼくはうまく希望を思い描くことができず、やや自暴自棄になっていた。

けれど、そんなときに、千葉さんとたっちゃんが正規メンバーになると決心してくれた。すでにいくつものバンドを掛け持ちしていたし、彼らにとってメリットがあるとは思えなかったのに、一緒になることを選んでくれた。

千葉さんは、本人にとってのメリットではなく、僕にとってのメリットをいくつも挙げながら、メンバーになった方がいいと伝えてくれた。

僕は、自分を選んでもらえたことが、ただただ嬉しくて、ひとりで泣いた。

そして、3人が正式に加入するのをきっかけに、僕はいまの名前を捨てようと思った。

僕はもう、「僕はニンゲンになりたかった」という名前を背負うのが、辛くなってしまっていたから。

サイフォニカというバンドを辞めたあの日、僕は本当に心から「自分はニンゲンになれていない」と思っていた。

周囲の人々に危害を加え、やるべきことから逃げ続け、人間関係をめちゃくちゃに破壊し、社会性も協調性もない自分は、ニンゲンに値しないと思っていた。

だから、もっとニンゲンらしくなりたかった。世間が定義する"人らしさ"に自分を当てはめたかった。そうなりきれない自分に憤りを覚えたし、絶望した。

そして、そんな自分の姿を、勝手に自分の母と重ねた。世間と自身のギャップに苦しみ続け、最期は自ら命を絶ってしまった母の姿は、ぼくの頭からずっと消えてくれない。そして、人を傷つけ続ける自分の姿を揶揄する意味でも「僕はニンゲンになりたかった」と名乗った。

この名前がいちばん自分にフィットしているし、この名前に共感してくれる人にだけ届けたいと思っていた。

けれど、少しずつ、少しずつ、この名前を名乗るのが苦しくなった。なぜなら、この名前を使っている限り、僕は自分をいつまでも「人らしい」と認めてあげられない。
そして、この名前はひたすらに、母の尊厳を踏み躙る名前でもあったからだ。

やはり、人は変わってしまうのだと思う。

「僕はニンゲンになりたかった」が始まったあの日から、いろんなことがあった。

僕はある程度人に感謝してもらえる仕事を見つけた。人になにかを教えたり、自分が書いた文章を誰かに見てもらえたり、そういうやりがいのある仕事だ。稼ぎは多くはないが、それでもときどき、心の底から「生きている」と実感できる。

少ないながら、自分の歌を認めてくれる人にも出会った。それはこれまでにライブハウス、路上で、僕らに出会ってくれたあなた方。そして、僕の歌にいつも真正面から付き合ってくれるメンバーたちだ。

新型コロナウィルスによる世の中の変化からも、大きな影響を受けた。世界の変化は、固定化された正解を打ち壊し、人々の価値観をほぐした。僕も、僕のような生き方は決して異端ではないと気付いた。

僕はようやく、自分のような存在も「人間」だと認めたくなった。

そして、同時に、もっと誰かと繋がっていたいと願うようになった。

これから、また誰かと傷つけあうとしても、それでも僕は、人と共に生きる道を選びたい。

だからこそ、僕はこの名前を捨てることにした。

「僕はニンゲンになりたかった」という名前は、その短い歴史に幕を引く。

僕の書く歌の本質は、これからもそう変わらないかもしれない。
いや、もしかしたら、結構変わっていってしまうのだろうか。

僕は、人はどうあがいても変わっていってしまうものだと思っている。
僕たちは変わらないよ、なんてことを言いながら、結局変わってしまった人たちを何度も見てきた。

けれど、それでもやっぱり、僕の歌は今も夜に生まれるのだ。

明日が不安で眠れない夜、過去に締め殺される夜、誰かを殺したいほど憎んだ夜、自分を否定することしかできなかった夜。

そんな夜をこれまでに何度も越えてきたし、きっとこれから先もそういった夜に出会すことだろう。

だからこそ、僕やあなたがこれまでに越えてきた夜を追悼し、これから何度も出会すであろう夜に立ち向かうために。

僕たちは、「yomosugara」として生まれ変わります。


僕の生活の中心には、ずっと音楽があります。

これまでに、いろんな形で音楽を作り、自分を表現してきました。

でも、僕の音楽人生において、なにより充実しているのは間違いなく、今です。

「yomosugaraをこれからどんなバンドにしていこうか」と、大須のメイシーズのご飯を食べながらメンバーと話したとき、ぼくはいま、なんて素晴らしいことをしているのだろうかと、泣きそうになってしまいました。

バンドの未来について大好きな人たちと語り合うことができるのは、この上ない奇跡です。

yomosugaraのメンバーとスタジオで練習するたびに、僕らの音楽を誰かに聞いてほしくて、足元がふわふわとしました。

yomosugaraのメンバーとステージに立つたびに、こんなに嬉しいことができない人生などありえないと、心の底から思います。

いまの僕は、大好きな人たちと音楽をやれているだけで、今日まで生きてきてよかったと思います。心の底から、この人たちと音楽をやりたいと思います

これまで応援してくれたお客さんに素晴らしいものを届けたい気持ちは、もちろんあります。これから出会う誰かに聞いてほしいという気持ちもあります。

けれどそれ以上に、メンバーというごく狭い半径の人たちの笑顔を見たいし、この人たちを感動させたいと思います。

誰かとともに音楽を奏でられることは、こんなに尊いことだったんだと、改めて気が付き、心が震えます。

そんな、初めてバンドを組んだ中学生や高校生のような気持ちが、20代の終わりがけになって、いまの自分に芽生えています。

だから、どうか、あなたにも、祝福してもらえたら嬉しいです。

yomosugaraは、きっと素晴らしいバンドになりますから。

名前を変えてしまって、ごめんなさい。
けれど、僕はいまのところ、やっぱりあなたに向けて歌を書きたいと思っています。

いずれ変わってしまう可能性は捨て切れないけど、未だ人間社会に対する失望や諦観は消えてくれません。ただ、それを超えた先にある、それでも人を愛していたいという気持ちが、少しずつ芽生えてきているかもしれません。いまは、そういったさまざまな感情が、とても良いバランスで混在していると実感があります。

まずは、yomosugaraが初めてリリースするep『√human』を聞いてみてください。

博士の愛した数式』という小説のなかで、数学者がこんなふうに語っています。

「√記号は、どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまう、寛大な記号である。」

√は、実体のない虚数のような数字にさえ、立場を与えてしまうほどにやさしい記号です。

だから、僕は過去の自分を肯定し、少しでも前に進むために、『√human』というepを、仲間たちと一緒にリリースします。

これは、或る不出来な男が、人として再生するための道のりなのかもしれません。あなたにもどうか見届けてもらえたら。

時には昔の話を、って言うけどあなたいつも昔の話してるわね

本当に久しぶりに、ちゃんかなさんと話をした。

 

ちゃんかなさんというのは誰かというと、数年前ぼくが鬱になって逃げ出したサイフォニカというバンドでドラムを叩いてくれていた人だ。

高校の同級生でもあり、かなり長い付き合いだったけど、サイフォニカの解散をきっかけに疎遠になっていた。

サイフォニカ解散のときにはお互いにひどい言葉を浴びせ合ったし、正直ずっと気まずい思いがあってほとんど連絡を取っていなかった。

 

「時間が解決してくれる」

 

その言葉はとても甘美な響きを持っている。それはとんでもない失敗を犯した人間でさえ、無条件に肯定してしまう。誰かを傷付け、泣かせ、恨まれることになったとしても、この言葉さえあれば、いずれ勝手に訪れる贖罪の日に期待してのうのうと日々を過ごすことができる。

 

けれど、僕はことサイフォニカの解散に関しては、そんなふうに考えてはいけないと考えていたし、どこまでいっても自分を許してはいけないような気がしていた。

 

ちゃんかなさんが久しぶりに連絡してきたのは、サイフォニカのファンのメッセージがきっかけだった。Instagramで、当時サイフォニカを聞いてくれていた方からDMが来たという。

 

そこには、僕らが音楽をやっていたことを、これでもかと肯定する言葉が並んでいた。

 

「苦しくてどうしようもない時に寄り添ってくれる歌が今でも大好きです」

「今でも辛い時に聞いて助けられています」

「サイフォニカの残してくれた曲は今でも自分の中で生き続けています。」

 

読んでいて、しぜんと涙があふれた。

 

と同時に、ちゃんかなさんはやはり律儀な人で、それはいまも昔まで変わらないのだな、と思った。

 

いちどは自分を拒絶した人間に、この文面を送るのにどれほど勇気が必要だっただろうか。逆の立場だったとして、僕がその勇気を持てただろうか。

 

そういえば、昔からそうだった。もう関係が切れてしまったような人にも、ライブを見てもらいたいと思えば躊躇いながらも連絡を取る。それで相手に厭われようと、自分の伝えたい気持ちがあれば、それをどうにかこうにか伝えようとする。そういう不器用な人だった。

 

そんなことを思い出しながら、僕は本当に、心から自然に、ちゃんかなさんにあの時のことを謝罪していた。

あらためて、彼女が本当に素晴らしいドラマーだったことを思い出していた。

 

そして、なんだかいつも喋っている友だちに話すのと同じように、お互いの近況をとても素直に伝え合うことができた。

 

ちゃんかなさんは、ずっとライブハウスに対して複雑な気持ちを抱いていたことを吐露してくれた。けれど、そのことについて僕を責めることは一切しなかった。

 

僕は、僕はニンゲンになりたかったのこれまでの活動で感じてきたことやこれからやろうとしていることを伝えた。

 

正直いえば、彼女にどんな反応をされるのか怖かった。けれどちゃんかなさんは、僕が前に進もうとしていることを知ると、素直に喜んでくれた。

 

本心ではもしかしたら複雑なものがあったかもしれないけれど、仮にそうだったとしても、彼女が祝福を贈ってくれたことが嬉しかった。

彼女がそんな祝福を贈れるぐらいに、自分の道を歩み始めていたことに安堵した。

 

ひとは、何度間違えるのだろう。

 

その時々の苦しさに振り回されて、誰かを傷つけ、必要以上に何かに傷つき、そうして心をすり減らして、大切なはずの関係さえ壊してしまう。

 

そんな愚かなことを繰り返しながらも、僕らは昨日よりほんの少しだけでも、だれかに優しくなれているのだろうか。

 

自分なりの理想を見つけ、その姿を体現するべく生きられているのだろうか。

 

やはり、ひとは変わっていってしまうのだ。それは寂しいことなのかもしれない。けれど、それが救いになることだって、あるのだと思う。

 

 

 

青テルマ山テルマ / 二人いるね

今日は風が気持ちいい。日陰に入ると太陽の煩わしさを忘れ、ただ風の心地よさだけを享受することができる。梢がさやさやと揺れ、細かな影がそのたびに揺れ動く。テレビゲームが大好きなぼくは、いつかはこんな光の処理さえ完璧に再現するエンジンが現れるのかとよくわからない期待をしている。ここ数日はずっと胸が苦しい。仕事をしているときも、音楽のことを考えているときも、なにもしていないときも、ずっと脳が回転し続けているような気がする。電源を切られることなく、回り続けるハードディスク。日々、小さなエラーを重ね、そのまま使い続けているうちに個人的なプロファイルがぶち壊れていくかのようだ。どこにも居場所がない気がする。どこにいても、そこに自分がいてはいけない気がする。いつも何かに否定されている気がする。誰かが心から楽しい思いをしているときに、自分はとてもつまらなさそうな顔をしている。人と気持ちを共有できないのは、慣れてはいるがやはり苦しい。人の目から離れたい。誰もいない場所に行きたい。いくつになっても、こういう日々がやってくる。多くの人が、そんな腐った気持ちを吐き出すこともなく、自分の中にだけ溜め込み、そしてなんとか笑顔を繕って辛うじて生きている。ぼくはいつまでもそういう忍耐力を手にできない。こういうことは、口に出した者の負け。そうなのかもしれない。けれど、ぼくはいつまでも負け続ける。ぼく以外の負けてしまった人を肯定するためにこそ。そして、誰かが無理な笑顔を作らず済むようにするために。

本当は格好なんてどうでもいいと思っていたかったよ

「そのネクタイ素敵ですねえ」

 

そう言われて、思わず顔が綻んだ。

 

「これは祖父にもらったものなんです。祖父もたぶん喜びます。」

 

祖父が亡くなったのは数年前。遺品整理をしていたら、百本近くのネクタイが見つかった。

 

フランス紳士に憧れていた祖父。彼が残したこれだけの数のネクタイ、使わずにおくのはあまりに忍びないと思って、その日から仕事をする時にはネクタイをしめるようになった。

 

あれほど忌み嫌っていたネクタイを、いまは好き好んで身につけている。

 

「まるで社会という檻に首輪で括られているみたいじゃないか」

 

そんなことを言っていた自分は、どこへやら。

 

服とは生活だ。誰もが着なければならないという必要に迫られているものでもある。けれど同時に、誰かの生き甲斐になり得る。

 

服とは生活だ。着る人の生活が終わってしまった途端、ただの布切れになってしまう。けれど、ときにその布切れは、また誰かの生活へと渡っていくことができる、

 

祖父が生死の境目を彷徨っていた折、ぼくは父とよく言い争いをしていた。

 

父は、祖父が亡くなってしまうことに対して、あまりにも冷淡だった。ちっとも取り乱していなかった。

 

「こういうのは、順番だからね」

 

そんなふうに簡単に割り切ってしまえる父の姿にいささか腹を立てた。

 

けれどその冷淡さは、人が自身の心を守るために、しぜんと身に付けていくものだろうなと、いまは思う。

 

ぼくの人格にも、その冷淡さが少しずつ忍び寄ってきているのを感じる。

 

その一方で、祖父が遺したネクタイを締めるとき、祖父が遺したシャツに袖を通すとき、祖父が遺したコートを羽織るとき、そこには冷淡さではなく、温みがある。

祖父が愛していたものを、ぼくは覚えている。祖父が愛していたものを、いまはぼくが愛している(あまつさえ勝手に使っている)。

 

そういう自分にとって都合のいい解釈をしながら、昨日よりちょっとだけ、誰かに優しくなれれように生きられたらなと思う。

 

人は、いつか死んでしまう。

 

あまりにも当然のことを、ぼくらは知っているはずなのに、何度も忘れてしまう。

 

だから、自分が本当に大切だと思う、ほんの半径数メートルの人たちには、何度でも愛を伝えよう。

 

祖父がくれたネクタイを締めるたびに、そんなことを思います。

まるで天才ミュージシャンのバーゲンセールだな

久々にレコーディングをしてきたよ。

僕はニンゲンになりたかった。僕はニンゲンになれたのだろうか。

 

前回出した音源の名前は『模範解答』。

 

あれを出してなんだか燃え尽きてしまったぼくは、しばらく音楽やらなくてもいいや、なんてことを考えてしまっていた。

 

ぼくが音楽から離れているあいだにも、世の中には多くの名曲が生まれた。たぶんぼくが音楽を作らなくても、それで困る人はもういない。

 

すでに消費しきれないほどの娯楽が世には溢れているし、音楽はそんな数ある娯楽のなかでも優先度を低く見積もられがち。

 

音楽よりもショート動画のほうが中毒性が高いのだろうし、ぼくがどれだけ精神を削って言葉を編んだところで、若いギャルがtiktokで腰を振ったほうが多くの人の心を動かしてしまう。

 

しかも、音楽業界にはもうわんさと「天才」なんて呼ばれる人がいる。最近は若干20歳なのに歌がべらぼうに上手くて抜群にセンスのいい曲を書く(しかも音楽的なバックボーンもしっかりしている)怪物みたいな人がうようよしている。

どう考えたってリスナーに対してプレイヤーの数が多すぎる。ぼくのために空いている席なんて、あるはずもない。

 

まあ、とどのつまり、自惚れていられる時間がずいぶんと短くなったわけだよ。

 

10年も前は、自分が作った音楽で世界を変えられると本気で信じていた。自分はもしかしたら天才やもしれぬ、と何度も思ったほどだ。

 

ところが、近ごろは自分の凡庸さにあきれている。

 

歌詞を考え始めると、言葉遣いはどこか稚拙だし、なんらかの文学やら音楽やらをリスペクトしようとすると、どうも表層的なものしか引っ張ってこれない。

 

楽曲を作っていても、だれにも思いつかないような発明はできない。ぼくが作るもののオリジナリティなんて、畢竟だれかの模倣の延長でしかない。もしかしたら、音源を世に出した後で「この曲どっかで聞いたことある」なんてことを言われるやもしれぬ。

 

歌もいつまでもへたっぴで、相変わらず妙なくせが抜けない。かといって自分のくせを殺そうとすると、今度はとんでもない棒読みになってしまう。ピッチを一切補正する必要がないほどの音感もない。

 

レコーディングをしてみれば、簡単なフレーズで何度もつまずく拙いギター弾きだ。タイム感もさしてよくないし、特にアルペジオを弾くときは未だに緊張してしまう。

 

誰もが目を見張るような技術もなければ、「天才」だらけのプレイヤー飽和時代に抜きんでるだけのセンスもひらめきもない。

 

 

だというのに、また曲を作ってしまいました。

 

また性懲りもなく、自分の歌はほかの何物にも代えがたいと思ってしまいました。

ほかの誰が作った作品よりも尊く、またあなたに聴いてもらう価値のあるものだと思ってしまいました。

 

ほかの誰かが素晴らしいものを作っているから、どうしたというんだ。

席が空いていないから、なんだというんだ。

それがお前を止める理由になんか、なりはしないのよ。

 

昨日の深夜、久々に、昔レコーディングした曲を聴きました。サイフォニカというバンドで録った「未完成」という曲です。

当時のぼくたちがとても大切にしていた曲でした。いまのぼくにとっても、未だ思い入れがある曲です。

けれど、いまの自分の音源と比べると、ギターの音はチープに感じたし、歌も今よりもっと下手くそでした。

それがショックでもあったし、それと同時に、とても誇らしくもありました。

 

ぼくがなにより素晴らしいのは、いつだって今日なんです。

ぼくがなにより競うべきは、過去の自分なんです。

歌を書くことは、それだけで尊いのです。

 

どうか、どうか今日のぼくの歌を聞いておくれよ。今日のぼくを見ておくれよ。ぼくはまだ音楽をやれるぞ。歌をうたって、ギターを弾いて、ぐしゃぐしゃでもみっともなくても、前に進めるぞ。

 

昨日選ばれなかったぼくたちへ。

2021年5月22日(土)栄TIGHT ROPE

 

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栄には、「女子大小路」と呼ばれる歓楽街がある。女子大と聞けば、どことなく華やかな印象を抱く人も少なくないだろう。しかしながら、栄の女子大小路はそんなイメージとは対極にある。

 

女子大小路には、ホストクラブ、ゲイバー、風俗店、外国人パプなどが密集している。その街並みの猥雑さは名古屋でも随一だ。「場末」という言葉が似つかわしい雑居ビルがそこかしこに建ち並んでおり、どんな町よりも世界の端っこに相応しいという貫禄がある。なぜか路傍には常に外国人やホストの集団がたむろしており、彼らの前でAボタンを押せば「ここは女子大小路だ。カネと欲望が渦巻く常夜の街さ。」なんて返事が返ってきそうだ。

夜に男ひとりで女子大小路を歩けば、片言の外国人に春の購入を促されることになる。しかし、楽器を背負っているときだけは例外だった。なぜなら、彼らはバンドマンが金を持っていないことを承知しているためだ。

そんな女子大小路に車を停めると、いつも胸騒ぎがする。結局それはいつも杞憂に終わるのだが、こんな街ではいつ車上荒らしにあってもおかしくはないと妙に勘ぐってしまうのである。

 

しかし、斯様に猥雑な街に、どうして「女子大」なんて名前が付いているのだろう。きっと調べればすぐにわかることではあるが、今日はそんなところに気を回す余裕はなかった。

 

栄TIGHT ROPEで配信ライブをやるのは何回目だろうか。

 

僕は以前、TIGHT ROPEの店長であるシェリーさんにこんなことを言った。

「配信ライブって、自分の性に合っている気がします。僕がやっている音楽は、お客さんを巻き込んでいくタイプのものではないので……。」

けれど、いつしかその言葉も撤回したくなっていた。本当は、お客さんの顔を見たい。目を見て、ひとりひとりに向けて唄いたい。共演者のひとにだって、直截見ていただきたい。音楽をやっているもの同士、わかることがきっとあるはずだから。けれど、配信ライブではそういったつながりがどうしたって希薄になってしまう。とりわけ、配信ライブで弾き語りをするときの、誰も味方がいないというあの孤独は、未だ耐え難い。

 

そんな不安を抱えながら、これまた場末という言葉がふさわしい雑居ビルの階段を昇っていく。今日の自分の出番は昼だから、同じビルの他のテナントはまだ開店していないようだった。

階段を昇り、TIGHT ROPEの扉の前に立つと、後ろから声をかけられた。
「シンタロヲくん、久しぶり。」
そこにいたのは店長のシェリーさんだ。もう何度も顔を合わせているので、シェリーさんに会うと少し安心感がある。

シェリーさんは僕に右手の爪を見せながら、「僕も最近指弾きの練習をしているんだ。いろいろ弾き方を教えてよ。」と言った。シェリーさんの年齢が幾つなのかは覚えていない。けれど、新しいことに挑戦しようとしているその姿は、どこか少年のようで尊いものに思える。

シェリーさんもネイルとか塗っているんですか。」
「ネイル塗った方が爪が伸びたときに反らなくていいですよ。」
「僕が塗っているのはグラスネイルっていう押尾コータローさんも使っているもので……」

久々に人と音楽の話ができることが嬉しかったのか、僕は矢継ぎ早に言葉を投げかけた。近ごろ、僕は結構なおしゃべりだなとよく思う。シェリーさんは嫌な顔ひとつせず聞いてくれたが、ひとしきり喋ったあとで僕は「またしゃべり過ぎた」と妙な後悔を抱いた。

 

リハーサルは、滞りなく進んだ。そういえば、今日はアコースティックギターのピックアップを交換してから初めてのライブだ。まだ家のアンプぐらいでしか出音を確認していないから、どんな音が出るのか不安だった。けれど、モニターから僕に返った音は以前の音とは比べられないほどに鮮明になっていた。

 

正直にいえば、アコースティックの弾き語りはいつも緊張している。サポートメンバーがいないから、開演までの時間をほとんど人と喋らず過ごすことが多い。しかも、僕の弾き語りはスラムやスラップといった奏法を交えていて、音もリズムも未だに安定しない。本番の緊張が合わさると、指先はさらに硬直してしまう。今日は新曲も披露するから、歌詞も間違えないか心配だった。「もっと練習しておけば」「もっと反復して歌詞を読み込んでいれば」……。

そんな風に自身の力不足を嘆いている間に、出番が来てしまった。

 

僕は入場SEを使わないから、まずは無言でステージに上がる。静かにギターをセッティングし、シェリーさんやPAさんの合図を待つ。今日はこの時間がたまらなく怖かった。いまからどんな失敗をしでかすんだろう。なにを間違えてしまうんだろう。ネガティブなイメージばかりがまとわりつき、身体がこわばるのがわかる。音楽で大切にしていたいものが、どんどん自分の身体から遠ざかっていくように思えた。シェリーさんの声が遠くに聞こえる。演奏開始の合図を聞くまでの時間が、果てしなく長く感じた。

けれど、ゆっくり、着実にそのときはやってきた。

シェリーさんの「どうぞ」という声とともに、僕はBマイナーセブンのコードを鳴らした。

 

どうせ役に立たぬとわかってたのに
未だ追いかけるから泥濘むのです

 

一曲目、僕は「題名のない夜」という曲を演奏した。この曲では、掌底で4つ打ちを鳴らしながらアルペジオを弾いている。大石昌良氏の「ボーダーライン」という楽曲の奏法をそのまま転用しているから、いつか誰かに怒られるんじゃないかと内心ひやひやしている曲でもある。しかし、今日の僕はそんなことも忘れ、ふわふわとした心持のまま、この曲を演奏していた。

 

「どうせ何も叶わない」って知ったような顔してたって
腹の底で浅ましい願いを抱く

 

自分で書いた歌詞が、痛かった。近ごろ、自分にはまるで才能がないんじゃないかと思うことが多々ある。あの人のほうが、自分よりもいい曲を書いているなと感じることが増えた。昔は、そんなことをあまり考えずに歌を書けた。なんであれ、自分が作るものはただ一つの貴重なもので、尊くて、自分だけでなく誰かにとっても価値のあるものと信じていられた。それなのに、いまは。

歌いながら、いろんなことが悔しくなった。これまでやってきたことが恥ずかしくなった。自身の無力さを痛感しながら歌うのは、苦しい。

1曲目の演奏を終え、フロアを見ながら少しだけMCをする。誰に話しているのか、誰に届ければいいのか、よくわからなかった。そのまま、次の楽曲を始める。

 

歪んでしまったのは世界か
それともこの心か

 

2曲目の「ハリボテ」を歌いながら、僕は考えていた。仮に歪んでいるのが自分の認知だったとしても、その歪みとどう向き合っていけばいいのだろう。いちど歪んでしまったニンゲンもどきは、世の中とどう折り合いをつけていけばいいのだろう。周りのものすべてを呪ってしまうあの気持ちは、未だ僕の心の奥底で燻っている。そんな怨嗟にも似た念を、最後のスラップフレーズに込めた。弦は指板に強く打ち付けられ、その衝撃でいつまでも揺れているように見えた。

 

そしてMCを挟み、いよいよ新曲「魔女狩り」を演奏する。コロナ禍の初期に書き始め、ようやくひとまずの完成まで漕ぎ付けた曲だ。僕は行動するのがいつも遅いなあと思いながら、歌い始める。

 

「どうしようもない」と云って魔女は笑った
それは不条理を音にしたような声だった

 

コロナ禍の初期、ライブハウスは世間の攻撃の標的になった。いまも多くの人が「なにものか」をつるし上げ、攻撃している。自分がその攻撃の対象になったときのことを考えて、ぞっとする。ライブハウスが以前と同じような場所に戻るには、あとどれくらいの時間がかかるのだろうか。

 

交渉の余地も残されぬまま
魔女は世界の憎しみを背負わされた

 

魔女狩り」の演奏を終え、いよいよ残すはあと1曲となった。なにか話さなければと思うほどに、言葉が詰まった。お客さんの顔を思い浮かべようとするが、そのイメージは煙のように掴みどころがなく、忽ち誰も味方がいない現実へと引き戻される。ひとりで戦い続ける世のシンガーソングライターは、本当に強いなと思う。ぼくは、ひとりになりきれず、正式な形のバンドを組むこともせず、ずっと中途半端なかたちで歌っている。それでいいとも思うけれど、何かと向き合うことを避けたずるい生き方だとも感じて、ときどき苦しくなる。

それでも、今日はひとりで、途切れ途切れに自分の気持ちをなんとか喉から押し出した。「この世界にようこそ」を歌う。

 

何もしなくたっていいから
偉くならなくてもいいから
ここで泣くだけもいいから
生きてて 健やかに
この世界にようこそ

 

はたして、いまの僕は、この歌を歌うに足る男といえるのだろうか。僕は、自分が生きていていい理由を、言い訳を、未だ探しながら生きていやしないか。

 

さまざまな疑問を残したまま、この日の演奏は終わってしまった。演奏を終え、カメラに向けて下げた頭は、所在なさげに揺れていた。

 

 

こんなにやりきれないライブをしたのは、久しぶりだった。

きっと、こんなことは書かないほうがいいのだろう。誰のためにもならないのだろうし、マイナスプロモーションでしかないのも間違いない。

けれど、どうしようもなく苦しくて、忘れた方がいいような日のことも、僕は覚えていたいのだ。そして、できればあなたにも覚えていてほしいのである。ああ、いや、本当は忘れてほしいかも。いいや、どっちだろう。

 

誰だって失敗はしたくないし、できればもっとうまくやりたいと思っている。けれど、絶対に失敗が許されない世の中なんて、僕は息苦しくて、厭だ。

 

とはいえ、今日の失敗が、いつかの成功に繋がれば、なんて甘言は吐かない。ともすれば、僕はあした急に死んで、二度とライブをできなくなってしまうかもしれないから、本当は今日だってもっと自分が納得できるライブをしたかった。

 

ただ、僕だけではなく、世の中の多くの表現者が、こういうやりきれないライブをなんども超えているであろうことを、誰かに知ってほしかった。そんなことをいちいち書く面倒くさいひとは、そんなに多くないだろうから。

 

ああ、今日も終わる。終わってしまう。

 

今日はなにができた?今日のおれは何者だった?

明日はなにをする?明日はどんな人でいたい?