I先生

中学生の時分、私は登校拒否児童となった。

その空白の期間に、同級生たちが学んだであろう太宰治の「走れメロス」を今さらながらに読んで、ある先生のことを思い出した。

 

 

先生は私が通っていた中学校で、現代文を受け持っていた。当時すでに齢五十は超えた熟練された教師でありながら、剽軽でユーモアにも溢れた男だった。

多感な中学生の心を巧みに掴み、先生自身も多くの生徒に親しまれていた。


私は先生の創る授業が好きだった。


文学は本来、明確な正解を設けてはならない学問である。

しかし、学校ではテストのために正解を作り出さなくてはならない。点数を付けるための指針としてテストがあり、生徒たちはテストに答えるために用意された正解をなぞろうと躍起になる。

空気や文脈を読み取れる人間を作り出すために、生徒の思考を均一化する教育。

中学生ながらに、私はそんな教育の在り方に疑問を覚えていた。


そんな中で、先生の授業は異質だった。

思春期の生徒たちの中に、一人でも意見の違う人間がいれば、それを見逃さなかった。黙殺することもなかった。


ただ、その周囲とは異なる意見に真摯に耳を傾けた。そしてその意見を間違っていると切り捨てることなく、新たな解釈を与えていた。

授業のたびに、新しい正解が生まれた。

先生の授業では、不正解は存在しないように思われた。

私は、子供ながらにそんな先生の打ち出す方針に心打たれた。

秩序のために少数派が矯正されていくこの世界にあっても、先生の授業を受けている間だけは誰もが平等であるように思われた。

 

 

私が不登校児になってからも、先生は私の家まで足を運んでくれた。


学校に行かなくなり、社会のレールから外れたことを痛いほど自覚していた私は、毎日罪の意識や疎外感に苛まれていた。輾転と苦悶にあえぐ日々で、顔からは徐々に生気が失われていた。

しかし、先生とお話している間は、そんな苦しみも和らぐかのようだった。先生は他にも学校に来ていない生徒がいることを教えてくださった。私のようなはみ出し者が一人ではないことを教えてもらえたのは、少なからず気休めになる。先生の言葉は、それでいて嫌味がなかった。現実から目を背けていなければ精神を保っていられなかった当時の私にとっても、先生から聞く学校の話は不思議と不快ではなかった。


不登校から徐々に復帰しかけていた折、先生に呼び出された。

図書準備室という図書室の隅にあるその部屋には、結局その一度しか入っていない。


先生は私の精神状態を案じてくださっていた。当時の私は週に三日も登校できていれば上出来で、気分が落ち込んで、なにもしたくなくなってしまうことも多かった。近況を話し合うと、先生は藪から棒に

「きみ、最近性欲はちゃんとあるか?」

などと仰った。

一瞬、ぎょっとしたが、私は苦笑して返事をした。

「一応、あります。」

先生は

「それがあるなら、まだ大丈夫だ。きっとまた元気になれる。」と言ってはにかんだ。

それは先生なりのユーモアだった。

私は、(ともすると、深刻になりすぎていた部分があるのかしら)と、ほんの少しだけ視界が晴れたような心地がした。

 

 

それから数年経ち、高校生になった私は、当時通っていた中学校からほど近いコンビニエンスストアでアルバイトを始めていた。私が高校三年生の頃、アルバイト先に先生が現れた。


私にとっては恩師とも言える井上先生は、お茶やおにぎりをレジに持ってきた。私に気付いた先生は、少し顔色が変わったように見えた。

「井上先生、お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか?」

当然、覚えてくれているだろうと高を括って話しかけた。私はずいぶんと傲慢になっていたらしい。しかし、先生は困ったような顔になって、

「ええと、君はたしか……。」

結局、先生の口からは名前が出てこなかったので、私から名乗った。

先生はそれでも、思い出したような、思い出していないような表情だった。


先生が店を出て行ってから、私は喪失感を覚えた。私という人間がいかに取るに足らない存在であるか、それがありありと感じられた。


先生、あなたの長い教師生活の中で、私はその目の前を通り過ぎた一人に過ぎないのかもしれません。けれど、私は確かにあなたに救われ、そして多くを教わりました。どうか今も御達者でいてくれたらと、それだけを願ってやみません。


せめて、私があの頃、文学の面白さを知っていたら、先生ともっとお話をできたのに。いや、むしろ休まず中学に行っていれば……。そんな悔恨はいつまでも消えてくれない。


いけない。またしても、後ろ向きな結びを持ってきてしまったようだ。これでは先生が報われない。だから、最後にひとつ。

それでも、先生の授業から受け取った感銘は、今も消えることはありません。あんな平等な世界があればいいのにと、今でも考えてしまうほどに。

たとえあなたに忘れられようと、僕が覚えていればそれでいいのです。畢竟、先生と教え子とはそういったものなのです。


いや、なにかひっかかる。

なにかおかしい。はたして、この日記の結びは本当にこれで合っているのかしら?私はなにかとんでもない間違いを犯しているのではないかしら?それもこれも、こんな昔を懐かしむ話は、きまって当人が亡くなってからでないと語ってはいけないという、妙な暗黙の了解があるからではないか。

いま、先生に連絡を取る手立てもなく、部屋でひとり呆けている私には、こんな日記を書く資格はないのかもしれない。しかし、私のことを忘れた先生にとっては、私は生きていようがそうでなかろうが大差なく、私にとっても二度と教えを請うことのない先生は、生きているのかなんなのかよくわからない存在である。もし仮に、先生に連絡を取ったらどんな顔をされるだろう?きっと、あの時のように、これは困った、という顔をされるにきまっている。私は人の生き死にに対してどうも無頓着なところがあるのやもしれません。

さあ、いよいよ着地点を失ってきました。これが思考に素直になりすぎた結果です。人は思っていることの半分も口にしてはいけないのではないかと、常々考えます。


なにが言いたかったのか、正直に明かします。私は今でも、人に忘れ去られることが怖いのです。怖くて怖くて、仕様がないから、どれだけ惨めになっても歌うのをやめられないのです。またこの結びだ、飽き飽きするね。