写真とこころ

昔から写真を撮られることが苦手だった。

「写真を撮られると魂を抜かれると思っているんだろう」

父のそんな冗談を真に受けたふりをしながら、わたしはレンズから逃げ回った。


けれど、本当のことを言えばわたしはわたしの顔を見たくなかった。それだけの理由だった。


自分の顔が写真に収まってしまう。形として残ってしまう。その嫌悪感を味わいたくないばかりに、わたしはあのレンズとシャッターの音を遠ざけた。


写真として残さずとも、自分の顔を直視せざるを得ない場面は日常に散りばめられている。


鏡を見るたびに憂鬱は向こうから歩いてきた。その憂鬱が通り過ぎると、次第に

「わたしはなぜこの男として生まれてきたんだろう。」といった疑問が浮かぶ。鏡に映る男がまるで他人のように見えるのである。


わたしは望んでもいないのに、この男の人生を演じさせられているのではないかと考えていた。きっとわたしの実体はこの醜悪な男の少し後ろにあって、いつも別人として彼を俯瞰している。その感覚は子供の頃からずっと続いてきて、今でもたびたび思い出す。


それを離人症と呼ぶことを後に知った。

 

それでも、いつも離人症の感覚に悩まされているわけではない。わたしはわたしなのだという確証はなくとも、それは考えていても仕方のないことだと割り切っていられる時には、鏡越しの自分への嫌悪感もいくらかは薄れた。


しかし、レンズを通して見たわたしの顔は、また違うのである。その醜怪さは鏡面に写ったわたしをはるかに凌駕する。

 

写真に写ったわたしは、おばけだった。


本当にわたしはこんな顔をしているのだろうか?

何度目をこすってみても、そこには不自然でいびつな表情をしたわたしの姿があった。


笑った顔は特に醜い。目がつぶれ、しわが寄って、鏡で見た顔とは似ても似つかない。こんな醜い顔があるか。


わたしは写真を恐れ続けた。


しかしバンドとして活動を始めて、写真を撮っていただく機会が増えた。アーティスト写真、ライブ写真、インタビュー写真。撮っていただくたびに、わたしは申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。


おそるおそる写真を見て、やはり目を背けてしまう。

「この写真、頬がこけているね。」

なんてことを言われた日には、ただただ苦笑して、その話題を一刻も早く終わらせようとした。


学生の頃、あいつは顔がよくない。といったささやかだが重大な陰口が、わたしの地獄耳に飛び込んできたこともある。

わたしはそれを否定する気には到底なれず、ただ俯いて、静かに首肯するほかなかった。

こんな出来の悪い被写体では、カメラも泣いているのではあるまいか。


しかし馬子にも衣装という言葉もあって、こんなわたしでもギターを抱えている間はいくらかましに写ったように思えた。


次第に写真家の方々と接する機会が増えた。その人たちの想いにも耳を傾けた。


一瞬間を切り取ることへの熱意は、音楽家のそれとどこか似ていた。だからこそ、音楽家の伝えたいものを慮って、写真という形で残そうとしてくれるのかもしれない。

父の「魂を抜かれる」という冗談も、あながち間違いではなかった。写真家はその瞬間の魂を抜き取るつもりでシャッターを切っている。だから素晴らしい写真には言葉では言い表せない何かが宿る。


わたしは自分を過信するあまり、自分の本来の姿を認められていないことにも気付きはじめた。


どれだけ現実と剥離した感覚を持っていても、わたしの顔はここにある。わたしの顔は、わたしが20年以上にわたって泣き崩したり、笑ってしわを作ったりしたものに違いない。


写真に写ることは、いまだに恐ろしい。

けれどぼんやりとしたわたしの姿をなんとか捉えようとしてくれる、そんな写真家の方々の心は、信じてみようと思っている。

 

 

ここにあるのはバンドが解散して、ひとりになったばかりのわたし。それでも音楽を続ける決意をしたわたし。何かに押しつぶされそうになっているわたし。なんとか道を開こうとしているわたし。逃げ出したわたし。怠け者のわたし。新しい希望を持ったわたし。


今のわたしを切り取ってくれたタカギユウスケさんに敬意を表します。

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