サイフォニカ解散によせて

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

すべてわたしが悪かったことにして、逃げ出してしまおうか。バンドマンにはありがちな、失踪。突然いなくなってしまう人間の気持ちが、いまならよくわかる。
けれど、それでいいのだろうか。初めから、わたしがすべて悪かったのだろうか。そうでないとしたら、彼女たちが、すべて悪かったのだろうか。違う、おそらくはどちらにも落ち度があって、相性もあって、わたし達の関係は寿命を迎えた。そう解釈するほうが、よほど自然なように思えた。

 

……ここでアクセルを思い切り踏み込めば、どれだけ楽になるだろう。
名古屋市内の大通りを運転しながら、そんな思いが幾度も胸に去来した。
バンドメンバーから活動休止を切り出されたあの日、わたしは本当に死のうかと思っていた。

昨年の九月頭、わたしは不安定な精神をついに自制出来なくなってしまった。所謂、鬱だった。
家にいる間、先行きの見えない未来のことばかり考え、過去に囚われ、今を生きる気力が微塵も湧かなくなった。景色がすべて灰色に見えた。夜はなにもかも不安で眠れなくなり、寝付けたとしても悪夢にうなされた。朝になり目を覚ましても、その疲労感と虚無感から、わたしはじっと天井の染みを眺めていた。精神科に通い始めても、流れ作業のような診察を受け、処方された精神安定剤に縋るほかなかった。
場所も時間も弁えず止め処なく涙が溢れ、嗚咽を漏らし、幾度も人前で醜態を晒した。アルバイトさえ、何度早退したことだろう。

わたしが初めて鬱になったのは、中学二年生の時分だった。
母の自殺と、その後の友人関係の悪化により、制服に袖を通せなくなった。毎朝、家族に励まされながら制服に着替えようとする。けれど、結局着れないまま、昼になる。一度、二度と登校を拒否するうちに、学校に行く気力は完全に失われた。りっぱな不登校児の完成である。
義務教育という義務を放棄したわたしは、世間の流れから外れた疎外感と、それでも元の世界に戻れない自分の不甲斐なさで、毎日のように泣いていた。もうわたしの人生はおしまいだと、なんども思った。

それでも、半年以上の登校拒否を経て、わたしはなんとか元の生活の潮流に身を翻すことが出来た。けれど鬱という持病の根は深く、完治したという実感が漸く湧いたのは、高校生の半ば頃であった。

それからのわたしは、皮肉をよく口にするようになった。心の中にもうひとりの自分が生まれた。どんな激情に囚われようと、それをいつも冷めた目で俯瞰するもうひとりの自分を。エレキギターを手にして、作詞作曲をするようになったが、わたしは初めから、捻くれた歌しか書けなかった。

話は戻って、現在。
バンドメンバーがわたしに活動休止を切り出したのは、鬱になったわたしといることに耐えられなくなったからであるという。
鬱を患ってからというもの、二人にはさんざ迷惑をかけ続けた。わたしの気分の浮き沈みは激しいなどという言葉で片付けられるものではなく、ともすると昨日と今日とで別人のように写ったことさえあるだろう。そんなわたしに配慮し、気遣う二人の心労は、筆舌に尽くしがたいものがあったのかもしれない。
しかし、自分の非を認めつつも、それを二人に改めて言葉で責め立てられた時間は、苦痛だった。くるしかった。
メンバーは、わたしが鬱を治さない限りもう活動を続けていくことはできないという。メンバーの提案は、「無期限の活動休止」だった。わたしがその言葉を聞いた瞬間におもったのは、
「明日からのわたしは、一体なにものになるのだろう。」

その話し合いが終わって、わたしは車で名古屋市内の大通りを走っていた。運転しながら、何度も涙が溢れてきた。前を走る車に、思い切りぶつかれば気が晴れるだろうか。楽になれるだろうか。なんども足に力を込めようとする。しかし結局、なにもできない。信号待ちの列に並んで、うなだれた。
「ひとおもいに人様に迷惑をかけて死ぬなどと、思い上がるなよ、人間の屑。どうせ死ぬのなら、だれにも迷惑のかからない死に方を選べ。」
わたしを冷静に俯瞰しているもうひとりのわたしが、それを告げる。

気付くと、わたしは大須商店街近くの駐車場に車を停めて、泣いていた。冬の刃物のような空気を、朗らかに射す太陽が誤魔化そうとするかのような日和だったが、肌を痛め付ける寒さは消えなかった。遠くに、車の行き交う音が聞こえた。
この冷徹な世界のどこにも、味方がいない気がした。バンドメンバーのことも、敵におもえた。その世界でも唯一、自分に味方してくれそうな父に電話した。平日、白昼の車内で泣きながら父に電話する自分の情けなさに、余計に涙があふれた。

バンドメンバーから無期限の活動休止を切り出されることによって、わたしは表現者ではなくなってしまう。けれど、音楽を辞めたくない。まだまだ表現したいことがたくさんあるというのに。ようやく、決意が固まってきたというのに。もう、みんな敵なんだ、どこにも味方がいない。どうしたらいいんだ。
電話口で、泣きじゃくりながら父にそう言った。黙って聞いていた父は、ぼくが話し終えた後で、あっさりと言い放った。
「そうか。それなら、また新しいメンバーを探せばいいじゃないか。父さんは、お前の味方だ。」
その言葉を聞いて、これまでずっと一点しか見えていなかった視界が、開けたような気がした。

わたしは、この人生二度目の鬱になってから、毎日思案していた。わたしが音楽をやる意味、理由。そうして、わたしが何故生まれ、何故未だ生かされているのか。何故、鬱を患ってなお、音楽を辞めなかったのか。
その結果わたしは、「鬱はわたしの一部なのだ」と考えるようになっていた。
鬱はずっとわたしの中にいて、数年おきに顕現するのだ。わたしを支配し、踏み潰すこともあれば、わたしの糧になることもある。鬱にならなければここまで苦しまなかった一方で、鬱にならなければ書けなかった歌が幾つもある。
だからわたしは、自分の一部である鬱を、これからも音楽という形に昇華せねばならない。鬱であることも含めて、わたしなのだ。つまるところ、鬱を治さなければ活動出来ないというメンバーとは、もう一緒にいられない。
むしろ、もう誰とも組まずに音楽を作った方がいいのだ。もう誰かに迷惑をかけることも、迷惑をかけられることも厭だった。誰かを自分の思想に引っ張ることも、引っ張られることも、厭だった。それに加え、人の人生を背負えるほど、わたしの生涯続けていきたいことは金になりそうもなかった。人の意見に流されず、わたしが本当に表現したいことを全うするには、一人にならなくてはならない。

翌日には、わたしはもう新しい活動を見据えていた。それは、表現者でなくなってしまうことへの恐れであったのかもしれない。けれどそれ以上に、わたしにとっては「生涯、ありのままの表現者であり続ける」という人生の責務を果たすべく、必要なことだった。そしてなにより、次のことを考えていなければ気が狂ってしまいそうだったのだ。

わたしはその日以来、メンバーとどう接していいのかわからなくなった。同じ空間にいることが苦痛になってしまった。活動休止を切り出されたことで、裏切られたような気持ちにさえなっていた。このバンドにわたしの居場所はもうないと思った。それは身勝手だが、わたしの本音である。
自分に嘘をついて、隠し通そうともした。けれど、すぐに限界がきた。
残りのツアーに同行出来そうもないことを、メンバーに告げると、メンバーの怒りを買ってしまった。
パニックに陥ったわたしは、バンドのグループLINEを脱退し、音信不通となった。勝手にバンドを解散する意向をツイートした。このままどこか遠くへ逃げようとおもった。

一体、どこに行こうか。メンバーがこれから東北を回るなら、わたしは関西に行くほうがいい。そうだ、和歌山に行きたい。中学生の頃、父が不登校になったわたしを連れていってくれた、和歌山に。海もあれば、山もある。そうだ、和歌山にいけば、なにか楽になれる気がする。逃げよう、早くここから逃げよう。

今思い返せば、ほとんど狂気染みていた。血走った眼で旅行鞄を睨みながら着替えを詰めていたところで、今池リフレクトホールのブッキングマネージャーである、藤目さんから電話が来た。わたしが突発的に発した解散のツイートを見たらしい。
わたしはまたしても泣きながら藤目さんに話した。パニックに陥り、殊更厄介なわたしに対してもあの人は理解を示してくれた。わたしはこのことで相当に救われた。世界中にもう敵しかいないとさえ思っていたが、そうではなかった。

少し落ち着いてから、わたしはこれまで自分の中に留めていて、言語化してこなかったありとあらゆる不満を、メンバーに伝えた。

結果は、惨憺たるものだった。
メンバーと幾度言い争ったかわからない。わたしたちの関係には亀裂が入ってしまった。
きっと彼女たちなりにたくさん耐えていたものがあり、そしてわたしなりにも耐えていたものがたくさんあり、その二つともが同時に爆発をした結果、このような形になってしまった。わたし達は、こうして瓦解した。
誰が悪いというわけではなくて、ぎりぎりで均衡を保っていたものが、脆くも崩れ去ってしまったのではないだろうか。

 

わたしは、残りのツアーを回れるような状態ではなくなってしまいました。
楽しみに待っていただいていた方々には、本当に申し訳ございません。メンバーにも申し訳ないと思っています。けれどわたしは、このままツアーを続けていたら本当におかしくなってしまった気がしてならないのです。それでもメンバーはツアーを続行したいと強い意志を示していたので、このような形になってしまいました。

綺麗に幕を引けずに、まことに申し訳ございません。
サイフォニカを始めてからこれまで、自分なりの思想、哲学を表現させて頂きました。わたしは手前勝手な歌しか歌えません。しかし、そんな歌に共感してくれる方も少なからずいらっしゃって、そういった方々のご声援に何度励まされたかわかりません。

共演してきたバンドマン達に、お世話になったライブハウススタッフの方々。レコーディングでわたしたちの音を形にしてくれたエンジニア様……。サイフォニカを助けてくださって、本当にありがとうございました。

そして、ライブハウスで、野外ライブで、あるいはインターネット上の音源で、ミュージックビデオで、サイフォニカに出会ってくれたお客様。出会って頂いたこと、本当に感謝しています。足繁くライブハウスに通ってくれた方々には尚のこと、感謝してもしきれません。これまで、ずっと、ずっと、応援していただいて、本当にありがとうございました。

勝手ながら、最後の最後、4月29日のワンマンライブだけは、自分も参加してバンドとして幕を下ろしたいと考えています。
これまで、本当にありがとうございました。サイフォニカの最期を、どうか見届けにきて頂けたら幸いです。

 


追伸

わたしは冷徹でございます。
この血はきっと生きながらに冷たく、もしかしたら凍ってさえいるかもしれません。
わたしは人間ではないのかもしれません。きっと人間の皮を被った、できそこないの剥製です。

わたしは自分の人間としての不出来さを呪い続けることでしょう。死ぬまで、明るく前向きな歌なぞ、歌えぬやもしれません。
わたしは人間になろうと試み続けて、そして最後までなれないかもしれません。
それでもわたしは、表現することを辞められないのです。自分にだけまっすぐな表現をすることを、辞められないのです。
それこそが、わたしが自身に課した、人生の課題であります。

この先も、わたしの歌とあなた方の生活が、またどこかで交わることを願って。